源氏も平氏も天皇も秦氏の末裔⁉~平清盛と源頼朝と奥州藤原氏、そして幕末明治維新も少々~

今回も日本史に関する記事になりますが、長文となっていますので、日本史にご興味の無い方はスルーして下さい。

この内容は私なりの考察ですので、常識外れの点はご容赦いただき、面白い視点だと思っていただけるとありがたいです。

なお、前回の記事でリンクを貼らせていただいたサイト内で、おそらく記載ミスがあったのではないかと思いまして、私のブログで図々しくも訂正をさせていただいております。

平氏のことを「百済系藤原氏」と書いてありましたが、「百済系秦氏」の間違いではないかと感じた次第です。

そこで、私は源氏も平氏も秦氏であり、源氏は新羅系、平氏は百済系として、今回の記事は話を進めさせていただきます。

RAPT理論では「平清盛がロスチャイルドになった」という話ですが、元々から平氏は秦氏であったと考えられますので、平清盛の時代になって秦氏になったわけではないと考えられます。

しかも、平氏のことを元々は出雲族だとRAPTは言っていますが、これが間違いであるということです。

平治の乱で源氏に勝利した平清盛ですが、平治の乱の抗争自体が新羅系と百済系の抗争だったということでしょう。

平治の乱に限らず、その数年前に勃発した保元の乱も、当然ながら大化の改新なども、新羅系と百済系の抗争だったと考えられます。

昔から日本を支配していたのが秦氏だと考えると、秦氏同士の抗争が続いていたことになり、いつの時代も支配権を巡り、新羅系と百済系で争っていたということでしょう。

従いまして、天皇も秦氏ということになり、新羅系の天皇、百済系の天皇が即位していたということだろうと感じます。

例えば嵯峨天皇や清和天皇から嵯峨源氏や清和源氏が誕生していますが、これらの天皇は新羅系であり、桓武天皇から桓武平氏が誕生していますが、この天皇は百済系だろうと推測できます。

そういったことを隠すために、例えば鎌倉時代は「持明院統と大覚寺統」、室町時代以降は「南北朝」と呼んでいたのかもしれません。

つまりは、持明院統=北朝=新羅系、大覚寺統=南朝=百済系、ということではないか、という私の勝手な推測です。

さて、私がかねてより疑問に感じていたことは、平清盛と奥州藤原氏の関係です。

平清盛は、どうして奥州藤原氏を倒そうとしなかったのか、私には腑に落ちませんでした。

日本国内を支配するのに、明らかに奥州藤原氏の存在は、時の支配者にとっては認めるわけにはいかなかったはずなのです。

前回の記事で、奥州藤原氏は百済系ではないか、と書きましたが、それを隠すために「奥州藤原氏」と呼んで、如何にも平安京の藤原氏とは別物として日本史では扱っているのではないかと私は疑い始めましたが、奥州藤原氏の出は藤原北家であるようなので、百済系の可能性は大いに有り得ます。

前回の記事でも触れましたが、源頼朝は奥州藤原氏に対して激しい敵意を抱いていたのに対して、平清盛は奥州藤原氏と良好な関係を築いていました。

良好な関係性の根拠として、平清盛は奥州藤原氏三代目当主の藤原秀衡に対して、鎮守府将軍となるように働きかけたことが挙げられます。

藤原秀衡の鎮守府将軍任命は、奥州の支配権を完全に奥州藤原氏に認めるという平清盛の意向に等しいものでした。

源頼朝とは真逆の対応を取っているのです。

平清盛がどうして藤原秀衡を鎮守府将軍としたのかと言えば、同族であったから、即ち、百済系であったから、と考えるとどうでしょうか。

一方で平清盛は、なぜか天皇家と常に揉めている様な感じさえありました。

後白河天皇(平清盛時代は上皇や法皇となっていました)との関係性は、決して良いとは言えませんでした。

いや、むしろ相当悪いと言っていいでしょう。

このことについては前回の記事で、平清盛は白河天皇の実子、一方で後白河天皇は白河天皇の玄孫であると書きましたが、平清盛は後白河天皇のことを格下だと見ていた可能性が高いと考えられます。

勿論、後白河天皇は新羅系の天皇の可能性も考えられます。

平清盛が白河天皇の実子だと言える一つの根拠は、太政大臣にまで上り詰めたことが挙げられます。

天皇の臣下に過ぎない源氏や平氏の人間が、五摂家の人間を差し置いて就けるような立場では無かったと思うのです。

白河天皇の実子だからこそ、平清盛は絶大な権力を握ることが出来たのではないかと推測します。

余談ですが、その理屈で考えますと、関白にまで上り詰めた豊臣秀吉も、もしかすると天皇の隠し子だった可能性も考えていいかもしれません。

豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、全ての有力大名が臣下となった人物で、これもまた絶大な権力を握ったわけで、構図が平清盛と似ていると感じるのは私だけでしょうか。

こうして見ますと、百済系は天皇を軽んじているようにも見えますが、そうではありません。

平清盛は、確かに天皇を軽んじているように映りますが、そうではなく、彼は自分が天皇になったつもりになっていた、という可能性が高いのです。

つまり、天皇の権威は重要視していた、ということでしょう。

福原遷都が良い例でしょう。

過去には、平城京から平安京に皇居を移転したのが桓武天皇でしたから、それに倣ったということでしょう。

しかも、後白河天皇まで同行させて監禁状態の様な扱いをしたわけで、天皇に対する臣下としての行動では無いでしょう。

桓武天皇に倣ったとすれば、平清盛が百済系であるという根拠になっていると言っても差し支えないでしょう。

そして実は、奥州藤原氏も天皇を軽んじているかのような節が見受けられるのです。

奥州藤原氏は現在の東北地方を支配していたわけですが、平安京にいる天皇家の影響を受けない独立国として君臨していたわけです。

事実かどうか分かりませんが、奥州藤原氏初代当主の藤原清衡は「奥州を朝廷とは無縁の国にしたい」という意向を持っていたようです。

もしも事実だとしたら、同じように藤原清衡は自分が天皇にでもなろうという野心を持っていた可能性が高くなりますし、当時の天皇が新羅系であれば、辻褄が合ってくることになりますが、果たしてどうなのでしょうか。

一方で、奥州藤原氏は天皇家に対する貢物を欠かさなかったようですが、このことをどう見るかです。

天皇家を重要視していた、という見方も出来ますが、自分達の権威の象徴としての行動だという見方も出来るのです。

「どうだ、奥州は平安京よりも凄いだろう」という奥州藤原氏の主張だとも取れなくも無いわけです。

実際に、奥州藤原氏は宋との直接の交易があった可能性もあり、そうだとしたら有り得ない話です。

奥州藤原氏の宋との交易を、見て見ぬ振りをしていたのが平清盛ということになってしまいます。

平清盛も日宋貿易を行っていた位ですから、普通で言えば、奥州藤原氏の日宋貿易は止めなくてはならないはずですが、認めているということになります。

これでは、日本において平清盛がトップなのか、奥州藤原氏がトップなのか、訳が分からなくなるような話です。

このことは、平清盛が西日本を支配し、奥州藤原氏が東日本を支配する、と言わんばかりの行動とも言えなくもありません。

ある意味では、日本を二つに分けるかのような支配体制です。

このことに危機感を募らせたのが天皇家であり源氏、つまり、新羅系の人達だったと考えてもおかしくは無いでしょう。

どう考えても、平清盛と奥州藤原氏は百済系かどうかは別としても、手を組んでいるとしか思えません。

一方で源頼朝は、天皇家を重要視している節があるのです。

RAPT理論では源氏を出雲族とし、出雲族は天皇を軽視している、というような話になっていますが、この理論と真逆なわけです。

源頼朝は平家打倒の挙兵をするのですが、その契機は以仁王という後白河天皇の皇子の意向によって挙兵しているのです。

そうです、源頼朝は天皇家の呼びかけに応じたというわけです。

勿論、天皇家を重んじていたと断言は出来ないにしても、少なくとも軽んじてはいなかった、ということではないでしょうか。

その理由としまして、平家打倒の挙兵をした時の源頼朝の軍勢は、非常に少ない数であり、負ける可能性が高い状況でもあったわけで、負けを覚悟してでも挙兵をしたのは、やはり天皇家の命令だったからではないかと考えてもおかしくは無いでしょう。

しかも驚くことに、以仁王の平家打倒の呼びかけに、日本国内の源氏が一斉に立ち上がっているのですが、この現象も天皇家を軽んじていたというRAPT理論を認めると、有り得ない現象でしょう。

どう考えても、平清盛の方が天皇家を軽く扱っています。

だから後白河天皇は、平清盛を倒そうと常に機会を伺っていた、ということでしょう。

鹿ケ谷の陰謀もそうですし、自分の子供(以仁王)が平家打倒を志したこともそうでしょう。

以仁王の一件は、源氏が秦氏の末裔であることを示唆していると考えていいでしょう。

RAPT理論では「秦氏が天皇を重んじる集団」と主張していますが、これだけでは平清盛についてどう説明するんだ、となってくるわけです。

源氏を出雲族として考えるからおかしくなるわけで、基本的に日本の支配層は秦氏だと考えれば、源氏であろうと平氏であろうと、官位に拘り、朝廷との結び付きに拘るのも納得できるというわけです。

また、平清盛や奥州藤原氏は、天皇になっている人物を軽んじていたとしても、天皇という権威は軽んじてはいなかった、と言えるのではないでしょうか。

RAPT理論で言う出雲族の人達も、実は秦氏だと考えた方が説明が付きやすいのも確かです。

従いまして、秦氏と出雲族とに分けているRAPT理論が大間違いだと考えて良いでしょう。

ちなみに、源頼朝が平家の一部を臣下として登用したのも、百済系と手を切った平家の人物だったということでしょう。

また、源頼朝が弟である源義経に対して、激しい敵意を抱いたのも、源義経が百済系の一身=スパイ役だったためと考えた方が良いかもしれません。

源頼朝は、源義経を罪人扱いし、全国に指名手配したほどに憎んでいたわけで、平家滅亡の功労者に対する行動ではありません。

源義経は平清盛の下で育てられましたし、奥州藤原氏との関係も強かったわけで、源義経が百済系に与していたと考えても整合性が取れる、と言いますか、それこそ百済系の傀儡として育てられたとさえ考えられます。

よくよく考えてみますと、源義経が最初に源頼朝に会いに行く時、それは源頼朝が平家打倒の兵を挙げて間もない時でしたが、ろくに兵を持たずに源頼朝の加勢に参加しているわけですが、これはどう考えても違和感でしかありません。

藤原秀衡は、源義経に対して軍勢を与えることを拒否したらしいですが、挙兵した源頼朝の加勢に行くのに、普通に考えておかしいと感じませんか。

これから戦争をしに行くのに、です。

確かに藤原秀衡は、源義経が源頼朝の加勢に行くことを最後まで反対した、と言われていますが、そうだとしても、源義経は藤原秀衡にとって息子同然だったという話が本当だとしたならば、むしろ軍勢を多く与えて源義経を守る手段を講じるでしょう。

ところが、藤原秀衡が源義経に与えたのは、重臣格であった佐藤継信と佐藤忠信の兄弟二人だけです。

もしかしますと、もう少し付き添いを与えたかもしれませんが、それでも軍勢と言うには程遠く、これでは遠征の途中で、源義経が何らかの奇襲にでも遭えば、一溜りもありません。

皆様は、このことをどう感じるでしょうか。

どう考えても、源頼朝を援護するための動きではなく、スパイ行為でも行おうとしている様な雰囲気でしかありません。

敵に会いに行くような雰囲気さえ感じますし、スパイ(刺客)として行くならば、遠征途中の懸念はそれほどせずに済むでしょうから、少人数の方がかえって都合がいいでしょう。

そうです、藤原秀衡にとっても源氏は敵だった可能性が高いのです。

つまりは、藤原秀衡にとって源義経は、源頼朝を見張るために同じ源氏であったため好都合だった、と考えた方が腑に落ちるような気がしてなりません。

この一件だけでも、平家と奥州藤原氏が繋がっている、つまりは百済系だと考えても差し支えないでしょう。

そのように考えた方が、藤原秀衡が源義経に軍勢を与えなかった理由を合理的に説明できると私は感じます。

源義経は平家をことごとく打ち破ったと言われていますが、源平合戦が行われた時というのは、平家が平清盛を失った後の出来事であり、平清盛亡き後の平家には源氏に対して勝ち目が無かったために、西へ西へと平家を逃がしたという見方も出来るのです。

そのような見方をすれば、次の点にも納得が出来ます。

源義経の戦目付として梶原景時(源頼朝の重臣)が同行していますが、梶原景時は戦後報告を源頼朝に行う際、源義経のことを激しく罵ったと言われています。

源氏側の大勝利だったにもかかわらず、加えて、源義経は最大の功労者なはずなのに、何を罵る必要があったのか、という話なのです。

通説では、源義経が梶原景時の指示を一切聞かなかった、とか、源義経が戦争の最中に禁じ手を講じた、などと言われていますが、戦争ともなればこれらのことは起き得るであろうことは武士であれば織り込み済みなはずなのです。

戦争は勝利しなければ意味が無くなるわけで、それこそ正当な手段かどうかはどうでも良いはずであり、しかも、源氏の大勝利をもたらしたはずの源義経が激しく批判されるのは解せません。

梶原景時が源義経を激しく批判したのは、やはり裏切り行為みたいなことをやっていたからだと考えた方が自然でしょう。

その報告により、源頼朝は源義経の正体を知るきっかけになったのでしょう。

平家討伐後の源義経に対する源頼朝の行動は、源義経を危険視したとしか思えない措置を講じています。

源頼朝は、源義経の命令に従うなと指示したり、源義経に与えた領地を全て没収したり、更には源義経暗殺まで実行しています。

ただの兄弟げんかでそこまでやるか、という仕打ちを源頼朝は行っているのです。

源頼朝は、源義経に起きていたすべての事が、平家や奥州藤原氏と繋がっていると考えたはずです。

それもあって執拗に奥州藤原氏の滅亡に拘った、ということでしょう。

源義経は鎌倉入りを果たしたという話もあり、源頼朝と源義経の仲違いのタイミングは分かり兼ねますが、重要なことは、源頼朝は源義経を仲違いにより犯罪者扱いするほど危険視したという結果がある、ということです。

しかも源義経は、チンギスハンとなってからも、源頼朝に対する恨みは忘れていなかったために、後に元寇が起きるわけですが、百済系として源頼朝が作った鎌倉幕府を滅ぼそうとした、ということでしょう。

つまりは、源義経は百済系として生涯を全うしたと言えるかもしれません。

この時代の話の最後になりますが、平清盛は病死と伝えられていますが、私は源頼政によって殺されたのではないかと推測しています。

源頼政の死亡日は1180年6月20日、平清盛の死亡日は1181年3月20日、となっています。

「殺されたと仮定したら時系列が合わない」と指摘を受けそうですが、源頼政は平清盛に対して謀反を起こしていますが、この時に平清盛に対して致命傷を与えた可能性があるのです。

実際に平清盛は熱病に酷く冒されたと言われていますが、傷が腐敗してしまったための現象だった可能性も考えられるのです。

ちなみに、源頼政の平清盛に対する謀反の契機は以仁王ですから、源氏が天皇家を重要視していた一つの根拠とも成り得るでしょう。

そして源頼朝が本格的に平家打倒に動き出したのは、平清盛の死後だったわけで、天皇家と源氏の連携も伺えなくも無いのです。

また奥州合戦についても、源頼朝は藤原秀衡の死後に決行していますので、平家打倒の時と全く同じ構図、つまりは影響力著しい当主の死後だということです。

1993年のNHK大河ドラマ「炎立つ」では、藤原秀衡は味方(岳父に当たる藤原基成)の裏切り工作によって、源頼朝の刺客に襲われたために胃の調子が酷く悪化して死んだように描かれていますが、おそらくは真実に近い、と言いますか、刺客によって暗殺された、と考えても良いかもしれません。

平清盛の死も、藤原秀衡の死も、偶然にしては源頼朝にとって都合が良過ぎると感じるのは私だけでしょうか。

実はこの「炎立つ」では、奥州藤原氏が宋と交易があるかのような内容も導入されていますので、意外にも、知られてはまずい真実を暴露してしまっているのかもしれません。

源頼朝は新羅系として、百済系である奥州藤原氏を何としても倒したかった、加えて、あたかも天皇と同等の様な振る舞いが許せなかった、と言えるかもしれません。

以上のように考察しますと、やはり私が推測するように、源頼朝が罪人生活をしていたという話は出鱈目だと考えた方が、起きた出来事の整合性が取れると感じます。

平清盛政権下で、源氏は地方に散らばってそれぞれの領地を治めていた、ということでしょう。

従いまして、戦争を行う軍事力も資金力もそれなりに有していた、ということだと考えられます。

そうでなければ、平清盛死後たった数年で、源氏政権が確立されるほどの大変革を起こせるわけが無いでしょう。

ちなみにRAPT理論では秦氏対出雲族の構図が頻繁に語られていますが、そもそもが出雲族を語ること自体がナンセンスだと言えそうです。

次に幕末明治維新を取り上げますが、孝明天皇は江戸幕府と手を組みましたが、元々は江戸幕府側から孝明天皇に歩み寄っているのです。

おそらくは江戸幕府側は新羅系だったと考えられますし、孝明天皇側は北朝であり、やはり新羅系であったと考えられます。

よく「公武合体」と耳にしますが、それを言い出したのは江戸幕府ですが、この部分だけでも、江戸幕府は天皇家との良好な関係に拘っていた、と言えるでしょう。

更に、前回の記事では孝明天皇を暗殺したのは薩長の可能性が高いと指摘しましたが、どうしてRAPTが薩長による孝明天皇暗殺を否定するのかと言いますと、「秦氏が天皇を重んじる集団」だという主張に矛盾が生じて来るからです。

RAPT理論では薩長が秦氏となっています(そもそもが江戸幕府も秦氏ですが)ので、孝明天皇暗殺が薩長の実行だと言えないわけです。

それでいながら、明治天皇すり替え説は肯定しているRAPTで、これを矛盾だと気付けないRAPTが本当に知能レベルの高い人間だと思えるでしょうか。

薩長の思惑は、おそらく南朝(百済系)の復活であり、それが動機だと仮定したならば、孝明天皇暗殺も明治天皇すり替えも納得できるわけです。

ちなみに西郷隆盛は、明治天皇に対して「言うことを聞かないと昔の身分に戻すぞ」みたいなことを言っていたという逸話さえありますから、この話が事実だとしたら、明治天皇は幕末時点で皇族の身分ではなかった、ということになり、明治天皇すり替え説に信憑性が加わります。

ただ、明治天皇にすり替えられた大室寅之助は南朝ゆかりの人物らしいので、全く皇族の身分では無いとは言い切れません。

よって、RAPT理論における日本史は、認識の何から何まで間違っていると言えるでしょう。

ちなみに、現在の皇族は南朝と北朝が入れ混じっている状態なのかもしれません。

明治維新で天皇すり替えを平気で実行出来たわけですから、現代においても、素知らぬ顔で天皇すり替えが行われているのかもしれません。

だから、令和天皇が平成天皇の実子でない、と言われても現実味があるというわけです。

ちなみに薩長は、江戸幕府14代将軍徳川家茂と本当の明治天皇まで暗殺している可能性があるようですが、専門家の多くは徳川家茂暗殺説は支持していないようですが、それを支持してしまうとまずいことがあるのかもしれません。

徳川家茂暗殺説を支持すると、15代将軍徳川慶喜の関与も疑われ、そうなりますと徳川家の汚点とも成り得るでしょう。

徳川家茂が上洛を果たした時、徳川慶喜は京都にいたわけですし、そもそも徳川慶喜は江戸幕府を裏切り、薩長と裏で手を組んだ人物です。

断言していますが私の推測です。(笑)

徳川慶喜は、大阪か京都において薩長と極秘で会談し、薩長と手を組めば江戸幕府滅亡後の徳川家を新政府内で重用する、などの密約を交わしたということでしょう。

ある意味で徳川慶喜は、薩長に江戸幕府を売った、というわけです。

どうして薩摩が徳川慶喜の将軍就任に固執したのかも納得できるというわけです。

実際に、大阪や京都での徳川慶喜の取った行動は不可解な点が多く、江戸幕府としての行動だと考えると腑に落ちない点も多いですが、薩長としての行動だと考えると腑に落ちてくると思います。

現に、大政奉還を行った時の天皇は、すり替え後の明治天皇ですから。

このこと(徳川慶喜の裏切り)が隠されていますから、徳川家茂が暗殺されたとなると、徳川家にとっては非常に不都合だと言えるわけです。

事実、徳川家茂は江戸城内で病死したのではなく、上洛後に突然病気になって死んでいますので、実に怪しさ満点なのです。

現代で徳川家が栄えているのも、徳川慶喜や薩長によるところが大きいわけです。

明治維新の恩恵を存分に受けているわけですから、徳川家茂が暗殺されたとなると不都合が生じるというのはこういうことです。

世の中の人達は、まさか徳川まで薩長と手を組んでいたなんて、考えてもいないでしょうから。

こうなりますと、江戸城無血開城の謎まで理解できそうですね。(笑)

あと、安政の大獄のことも理解できそうな気がします。

このように、RAPT理論で秦氏と言われている人達の方が、天皇家を軽んじている様な事実があるのも確かですが、決してそうではありません。

源氏(新羅系)にとっても平氏(百済系)にとっても、天皇は重要な存在だったと言えそうです。

そして新羅系は、天皇という立場と人物を重要視していたのに対して、百済系は天皇という立場を重要視していた、ということなのかもしれません。

基本的に、天皇以下支配層の人達が秦氏であるからこそ、いつの時代も天皇を重要視しているのも頷けるというものです。

現代においても、西暦だけで十分なのにわざわざ元号を用いているのは、天皇を、そして、天皇制を重要視しているからと言えるでしょう。

内閣総理大臣の任命を行うのも天皇ですから、天皇の権威は征夷大将軍があった時代から何も変わっていないということです。

ちなみに「平成」という元号は、RAPTが言うには「秦氏が日本を治める意味が込められている」という話をしていたように記憶しますが、そうではなく「平氏が成る」つまりは「百済系秦氏が世を支配していく」という意味だったということでしょう。

おそらく「昭和」は戦後以降、新羅系秦氏が支配権を奪っていたのかもしれません。

実際に平成天皇は桓武天皇の子孫だと言われていて、しかも、桓武天皇のことに触れて百済王のことを発言しているようで、桓武天皇=桓武平氏=百済系秦氏ということになり、平成天皇は自分のことを百済系秦氏だと言っているに等しいわけで、「平成」という元号に筋が通ってくるわけです。

最後に余談ですが、RAPTがさも自信満々そうに暴いている「JAL123便墜落事故」の内容も、全くもって出鱈目だと考えていいでしょう。

出雲族の犯行だと言ったり、中国共産党の犯行だと言ったり、犯人が次から次へと変わっていますし、そもそもが出雲族を語っている時点で間違っているということです。

悪魔崇拝を現実にやっているのはRAPT自身とRAPT信者だけですから、あの事故を悪魔崇拝儀式としている時点で真実から遠ざかっているということです。

勿論、RAPTの解明が全部出鱈目だとは言いませんが、核心から大きく反れていると考えて間違いないでしょう。

もしかしますと、仮にこの事故がただの事故でないとしたら、新羅系と百済系の争いで、新羅系の仕業なのかもしれません。

ちなみに、事故当時の内閣総理大臣であった中曽根氏の「真実は墓場まで持っていく」という発言は、どうやら公式の場や雑談でさえもその記録は無いようで、陰謀論界隈で作られたシナリオの可能性が高いと感じられます。

そう言えば、JAL123便墜落事故に関するRAPTの動画や記事もほとんど削除対象として扱われていませんが、そういうことでしょう。

全然話が変わりますが、「朝鮮人」という言葉が差別用語的に扱われているのも、妙に納得感があると感じるのは私だけでしょうか。(笑)

今後も日本史に関する記事を定期的に書こうと思いますが、思いも寄らない推測をしている場合もありますので、素人が勝手に楽しんでいると思っていただければ幸いです。

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