RAPT氏との決別。キリスト教との決別。聖書との決別。

今回の記事は、かなりの長文になります。

タイトルの通り、私はキリスト教に対する信仰をやめると決心しました。

これまで、RAPT理論を5年、RAPT朝の祈り会とRAPT有料記事を3年に渡って信じてきましたが、残念なことに、私の人生は良くなるどころか悪くなる一方でした。

そんな時に、かつてRAPT氏から工作員認定された「K」という人物のブログに辿り着きました。

彼のブログもどこまで信憑性が高いかは分かりませんが、RAPT氏に対する批判記事に関しては、かなり納得できる部分がありました。

批判と言うと語弊がありますが、RAPT氏に対する事実を書いている記事、ということです。

私も少なからず、「K」という人物の言い分と同じ思いを抱いていたというわけです。

それだけではなく、彼のブログには、世の中で起きていることや聖書の矛盾など、意外に理路整然と記載されてある部分もあるのです。

そこで私はこのブログも今年で終わりにして、無料ブログの方でRAPT氏や聖書、キリスト教が如何におかしな点があるかを証明するブログを立ち上げたいと考えていますが、それも時間の無駄ではないか、とさえ考えています。

私がRAPT氏から決別する要因となっていることを以下に挙げますが、これらのことを読んでいただくと、RAPT氏の伝えていることが如何におかしいかがご理解いただけると思います。

私の身近で神を否定した人たち(両親などの私の身内や我社の退職した従業員たちなど)に、裁かれる気配が一向に無いこと。

それどころか、神を否定して私から離れていった人たちほど、幸せ(肉的な成功)になっているように感じること。

私の身近で悪を働いている人達に、裁かれる気配が一向に無いこと。

原発原爆は存在しないとRAPT理論で暴かれたにも関わらず、原発に携わっている人々や電力会社に裁かれる気配が一向に無いこと。                                            ※むしろ電気料金は値上がり、下手をすれば電力会社が儲ける構図が未だに続いています。

癌は存在しないとRAPT理論で暴かれたにも関わらず、癌センターや内科といった病院に裁かれる気配が一向に無いこと。                                                 ※むしろ癌センターも病院も患者で繁盛している昨今です。                                私の会社の向いにある病院も毎日のように患者さんでいっぱいで衰退する気配ゼロです。(笑)

神が悪と断定されている偶像崇拝、つまり、分かり易く言うならば神社仏閣への参拝や仏壇を拝む行為等ですが、神社仏閣や仏壇製造業者などに裁かれる気配が一向に無いこと。

それだけでなく、偶像崇拝を実行している人達に裁かれる気配が一向に無いこと。

創価学会や生長の家などのRAPT理論で言うところの悪魔教団体が、一向に滅びる気配が無いこと。                                                 ※衰退するどころか、施設を改修工事できるほど儲かっているようにさえ感じます。(笑)

「酒やたばこは絶対にやめなさい」と神が言っているにも関わらず、世の中から酒やたばこが無くなる気配が一向に無いこと。

更に酒やたばこを製造している人達に裁かれる気配が一向に無いこと。

パチンコや競馬など、ギャンブル業界に滅びる気配が一向に無いこと。

神は「姦淫は悪」だと言っているにも関わらず、風俗業界やアダルトビデオ業界に滅びる気配が一向に無いこと。

RAPT氏は「自慰行為は異性の罪ではない」と言っていたことがありましたが、聖書にある「心の中でみだらな思いを抱いただけで姦淫になる」という一文を否定したに等しいということ。        ※自慰行為をする人たちの中で、みだらな思いを抱かない人は一人もいないはずです。          逆に言えば、みだらな思いを抱くから自慰行為をするのではないでしょうか。

そもそも上の聖書の一文は、人間に元々備わっている性欲を悪だと言っている様なものだと感じること。                                                    ※性欲とはざっくばらんに言えば、異性に触れたいと思う感情、ではないでしょうか。

私の身近でRAPT理論の話をする人が一人もいないこと。                              ※RAPT理論が登場して10年にもなるのにこの現象は有り得ません。                              それこそ神にRAPT理論を拡散する意思が無いとも考えられます。

気象操作が行われているにも関わらず、関係者に裁かれる気配が一向に無いこと。          ※気象操作により大雨や洪水などの災害が人為的に行われているとすれば、その人たちが裁かれなければならないはずですし、気象操作そのものが行えないようにならなければ嘘です。

人工地震を引き起こして多くの人々を殺害し負傷させた悪人達に、裁かれる気配が一向に無いこと。                                                                                     ※未だに人工地震が起きているのはなぜでしょうか。(笑)

自分の祈りが叶えられたと実感できたことがほとんど無いこと。

RAPT氏への献金を始めてからというもの、私の人生はボロボロになっていったこと。                ※仮に「私の為した義の条件が足りないからだ」と言われるならば、イルミナティのような悪を働いている人間たちや、神のことを知らずに罪ばかり犯している人間たちは、私以上に義の条件を立てていないわけですから、私以上に人生がボロボロになっていないと理屈に合わない、と感じるのは私だけでしょうか。

2024年5月~6月に絶体絶命のような状況になったにも関わらず、神から助けという助けが来なかったこと。                                                    ※それにより私は結局借金が増えてしまいました。                                それとも、借金出来たことが神からの助けとでも言うのでしょうか。(笑)

RAPT氏へは合計で4回メールを送ったにもかかわらず、一度も返信が無かったこと。                  ※世の中でもメールや電話に返事をしないのは、人として駄目だという認識があるかと思います。                ラインの既読スルーなど、不快に感じる人も多いと思いますが、それと同じです。                   更に、私は人生がボロボロになっている件をメールしたわけで、本当に人を救おうとしている人がその内容に返信をしない時点で愛はありません。                                   ましてや私は、そのメールの題目として「献金をやめる」と送信したわけです。                                      もしも「1日に何通もメールが来るので全部に返信はできない」と言うのであれば、それは「神にも不可能がある」と言っている様なものだと言えるでしょう。                                 1日に何百通ものメールを1時間程度で返信できてこそ神業と言えるのではないでしょうか。

RAPT氏よりも神業を成していると思える有名人が多いこと。                                              ※プロ野球界の大谷翔平選手や将棋界の藤井聡太棋士などがその典型でしょう。

RAPT氏は盛んに「イルミナティは滅びた、中国共産党は滅びた」とか言っていますが、どこを指してそのように言っているのかよく分からないこと。                                ※例えば、孫正義についても裁かれていると言われていますがソフトバンクは健在であり、グーグルも裁かれていると言われていますが、これまた今でも健在です。(笑)                          「滅びる」という言葉の意味をRAPT氏は理解しているのでしょうか。                         この件については、別途記事にしています。

RAPT氏らを貶めてきたはずの警察機関が未だに健在であり、裁かれる気配が一向に無いこと。

RAPT氏らを貶めてきたはずの国税局が未だに健在であり、裁かれる気配が一向に無いこと。

借金は罪なはずなのに、かつ、銀行も聖書の基準に照らし合わせれば悪のはずなのに、裁かれる気配が一向に無いこと。                                                        ※消費者金融も同じです。

「神のことを知らなかった時に犯した罪は許される」という言葉は、一見すると救いがあるように聞こえますが、「知らなければ悪を行っても許される」という誤解を生じかねない解釈を生む可能性があるということ。                                                          ※極論ですが、殺人が悪だと知らなければ殺人を犯していい、という話になってしまいます。       「それならば神のことを知らない方が良かった、幸せだった」と考える人ばかりになってしまうでしょう。

ユーチューブがRAPT氏へ不正操作をしたということで、ユーチューブの裁きを祈るよう御言葉を伝えて5年以上が経過しているにも関わらず、いまだ健在であり、裁かれる気配が一向に無いこと。

ユーチューブについても、裁かれるどころかむしろ、繁栄しているようにさえ映ること。                   ※RAPT氏は、5~6年前の御言葉の中で「ユーチューブが滅びる(衰退する)」みたいな発言をしていました。                                                            実際に私の身近でも、「テレビは見なくてもユーチューブは見ている」と言う人が圧倒的に多いのですが、これ如何に?(笑)

RAPT氏は「健康診断は健常者を病人に仕立て上げるためにやっていることだ」と言っていますが、その理屈で言えば「健康診断の実施は悪」となるはずなのに、健康診断を実施している病院や業者に、裁かれる気配が一向に無いこと。

他にもたくさんあり過ぎて、書いていたら切りが無いほど、実はRAPT氏への指摘は尽きることが無いことが判明したのです。

しかも、神は愛の存在なはずなのに、人類を堕落させるものや退廃的なもの、神自身が罪と定めているものを放置しておきながら、堕落するなという教えをもたらすことに、違和感を覚えずにはいられません。

簡単に例えますが、親が子供の楽しみのためにゲームを買ってあげたのに、そのゲームを一切させないようなものだと言えるでしょう。

それはもはや、いじめているレベルだと思いませんか。

RAPT氏の神がやっていることは、これに等しいということです。

RAPT氏の神が為していることは人類に対するいじめ、と考えた時に全てのことに整合性が取れような気がしてきました。(笑)

人類を堕落から救いたいのであれば、まずは人類を堕落させるこの世のものを全て滅ぼすべきでしょう。

しかも、人類を堕落させるものを作ったのも神自身なはずでしょう。

この世のものは神の創造物と言われていますから、すぐにでも壊すことが出来るはずです。

それが本当の愛ではありませんか。

神社仏閣を残し、病院を残し、パチンコ店を残し、居酒屋店を残し、飲み屋を残し、風俗店を残し、淫乱物を残し、銀行を残し、消費者金融を残し、といった具合に、世の中にあるあらゆる罪の根を残しておきながら、堕落するなと言う方に無理があるのです。

まずは神がこういった堕落的なものを世の中から滅ぼし、その上で滅ぼした堕落的なものを再び構築する人間がいれば裁く、という方法こそあるべき姿ではありませんか。

RAPT氏やRAPT氏の神は、これをどう説明するのでしょうか。

そもそも、この世の存在物が全て神の創造物だと仮定した時に、「沢山の罪を指摘している神様が罪の温床となる物を次々と人類に作らせた」となり、これまた矛盾的な話になるわけです。

つまり、神の為されようは明らかに人類を堕落させようとしている、と言わざるを得なくなりますし、神自身が悪を働いている、とも言えるのではないでしょうか。

これでは何が正しくて何が間違いなのか、さっぱり分からなくなってしまいます。

2025年4月のRAPT氏の御言葉の中で、「神様にしてもらったことを100個書いて送って来なさい。」という話があり、これこそが私がRAPT氏から決別する決定打となりました。

申し訳ないですが「RAPT氏がおかしいと感じることを100個書きなさい」と言われた方がスラスラ出てくるほどの勢いです。(笑)

ちなみにRAPT氏は「私は神様からしてもらったことは千も二千もある。それこそ一万とある。」みたいなことを言っていたと思いますが、それならばどうしてそれを書いてくれないのでしょうか。

信者たちに「神様の祝福とはこのようなものだ」と紹介する絶好の機会ではないかと思うのです。

私がRAPT氏の立場であれば、自分が受け続けて来た祝福をいくらでも紹介したくなります。

そうしなければ、自分にどれほどの神の力が宿っているかを信者たちに分かってもらえないと思うのです。

申し訳ないですが、RAPT氏の受けている祝福が世の中の人達や信者たちの目に大したことが無いと映るのが怖いのか、そもそも神の祝福を伝えることが出来ないのではないか、とさえ勘繰りたくなります。

しかも、御言葉の中で語られるRAPT氏の過去の話が、3個か4個レベルで、いつも同じ話ばかり聞かされるわけです。

神から千も二千もしてもらった人が、数個しか具体的なエピソードを語れないということが、果たして有り得るのでしょうか。

正直なところ、「霊的な恵み」とは具体的に何なのか、実は私自身もはっきりと分かっていませんし、RAPT氏も具体的に語ってくれたことはほとんどありません。

加えてRAPT氏は「下手に伝えると工作員が真似をする」などと言っていましたが、私に言わせてもらえば、工作員が真似をしたところで何の問題もないだろう、と思うのです。

RAPT氏には、本物と偽物を見抜く力が神から与えられているはずではありませんか。

それなのに、未だに工作員のことを気にする意味が理解できません。

未だに工作員を見破る自信が無いのか、と思ってしまいます。

仮に、RAPT氏の真似をして「神様から受けた100個の恵み」を信者たちや工作員が書いてきたとしても、偽物だと判別できるのではないでしょうか。

そうでなければ「神の人」とは言えないでしょう。

未だに応募してきた信者たちが工作員かどうか、という話をしなければならない時点で、神の力が働いているようには思えません。

しかも、いつまで工作員と低次元で争い合っているのか、とさえ私は思っています。(笑)

そして、2022年9月のRAPT氏の御言葉で、「日本人が神様の御言葉を足蹴にしたから日本人を裁く」と唐突に宣布されたことがありました。

ちょっと待ってください。

日本人が御言葉をいつ足蹴にしたのでしょうか。

日本人とはどの日本人を指しているのでしょうか。

未だにテレビでさえRAPT理論は伝えられていませんし、多くの日本人がRAPT理論を知る機会にさえ出会えていないはずです。

少なくとも私の身近ではそうです。

テレビでも学校でも会社でも、全ての日本人がRAPT理論やRAPT氏の御言葉を知る環境が日本において整備されているならばいざ知らず、そのような環境が全く整備されていない日本において、その言葉は理不尽以外の何物でもありません。

私の身近にRAPT理論や御言葉が広まっていないのを「それはあなたが伝道しなかった結果だ。」と言われそうですが、それならば、この私を裁けばいいことでしょう。

違いますか?

と言いますか、沢山の人達を殺してきた悪魔崇拝者たちと、何も知らない一般庶民たちが、同じ悪だとでも言うのでしょうか。

もっと言えば、意図的に神に反逆している人達と、何も知らずに無意識に神に反逆している人達と、同等の悪だとでも言うのでしょうか。

そもそも、神を知らずに反逆している人達は許されるのではなかったのか、という話です。

どう考えても愛の神ではなく理不尽の神です。

更に、「K」氏が面白いことを書いていましたが、上の御言葉を引用してのことですが、「神が岸田内閣を使って日本人を裁いているのに、岸田内閣を批判しているRAPT氏はおかしい。」と書いてあるのを読みましたが、まさに当を得ていると思いませんか。

神が岸田内閣を使って悪事をやらせているのに、岸田内閣を批判するRAPT氏の言動は、神を批判する言動そのものになります。

こういうのを矛盾と言うのです。

そしてこの矛盾を与えているのが、全知全能の神だというのです。

どう考えてもおかしいでしょう。

まあ、善なる神が岸田内閣を使って悪をやらせる意味も分かりませんが。(笑)

しかも、岸田文雄はRAPT氏が言うところの、悪魔を崇拝している人物の一人なはずです。

悪魔崇拝者と何も知らない一般日本人とを、RAPT氏の神は同等に扱うような方なのでしょうか。

何も知らない一般日本人が先に裁かれて、悪魔崇拝者への裁きが後回しなんて、どう考えても不条理ですし理屈に合いません。

このように、ちょっと考えればおかしいという内容がすぐにでも出て来る有り様なのです。

まだあります。

人間には三大欲求があり、食欲、睡眠欲、性欲と言われていますが、RAPT氏の神は、これらを制限する指示を出していることも分かりました。

人間が神の創造物である以上、三大欲求を与えたのも神となりますが、それを罪と称し制限する掟というのも理屈に合わない理解不能なことであり、もはや人間いじめとしか思えないレベルです。

人間をいじめるための神と考えれば整合性が取れますが、少なくとも愛なんて微塵も感じません。(笑)

簡単に説明しましょう。※簡単にならないと思いますがご容赦を。(笑)

食欲を制限する掟とは断食祈りです。

聖書の登場人物も四十日四十夜何も食べなかった、みたいなことが書かれてありますが、いやいや、普通、死んでしまいますよ。

まあ、神の力が働いているから死ぬことはない、と言うのでしょうが、実際に皆さんは40日間、何も食べない飲まない生活を想像できますか。(笑)

と言いますか、神の力が働いていたとしても嫌でしょう。

現在はここまでの断食をすることは無いと思いますが、断食祈りは本当に意味不明です。

断食祈りが本当に人間にとって有益ならば、人間に食欲など与えるな!という話になり、人間に食欲を与えた神は、理不尽の神とも言えそうです。

睡眠欲を制限する掟とは、明け方の祈りです。

RAPT氏は「深夜1時から4時半まで祈りを捧げなさい。」と言いますが、この時間に起きて、ましてや3時間半も祈るなんて単なる苦行でしかありません。

人によっては睡眠不足に陥る可能性すらあります。

貴重な睡眠を削る行為ですが、それならば、なぜ神は人間が活動できる昼間に祈るように指示できないのでしょうか。

光の方にいる神がどうして闇を好むのか、実は私にはずっと矛盾にしか思えませんでした。

RAPT氏が言うには「人々が寝静まっているから人間の余計な脳波が飛んでおらず、最も神様と疎通し易い時間帯だ。」と言うのです。

もっともらしく聞こえますが、ちょっと待ってください。

深夜1時から4時半とは、確かに多くの人々が睡眠している時間帯です。

ところが一方で、神から罪だと言われていることを犯している人々が多い時間帯でもあるのです。

聖書で言うところの堕落的な時間を過ごしている人達が多い時間帯です。

例えば、居酒屋、クラブなどのお酒を提供するお店が営業しているのは、昼よりも圧倒的に夜の時間帯です。

また、風俗店についても昼の営業はあるものの、活発に営業する時間帯は、やはり夜です。

要するに、姦淫が盛んに行われるのも圧倒的に夜が多いでしょう。

昼間から飲酒したり淫乱なことをするのは、人間としてどこか恥じらいや罪悪感みたいなものがあります。

昼と夜を比較すれば、確かに昼の方が圧倒的に活動している人達は多いでしょうが、私が思うに、夜遊びをしている人達よりは昼に活動している人達の方が、罪の有無はどうあれ、真っ当な時間の過ごし方をしているはずです。

つまり、RAPT氏の言うところのサタンが活発に活動しているはずの時間帯が一番、神と疎通し易いというのです。

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RAPT氏は「神様にお祈りをしている時や祈った直後が最も神霊になっている」と言うのですが、実を言いますと私に起きていることは逆でした。

つまり、お祈りを終えた直後の方がなぜが俗的になってしまっていました。

例えば、異性のことを思い浮かべたり、仕事のことを考えたり、と言った具合に、意識が世の中に向いてしまい、祈りの後はなかなか寝付けないこともしばしばでした。

要するに、明け方の祈りは睡眠欲を制限する掟以外の何物でもない、ということです。

3年以上継続して何の結果も出ていないということが、最大の証拠でしょう。

まあRAPT氏に言わせると、私がおかしいだけ、私の立てた義の条件が足りないだけ、自分勝手な信仰生活をしているだけ、といくらでも指摘が可能で、何とでも言えるというわけです。(笑)

ちなみに、性欲を制限する掟は姦淫を罪と定めたことだけで十分であり、説明するまでも無いでしょう。

はっきり言わせていただくと、「K」氏が言うように、RAPT氏の神は人間に幸福を与える気など微塵も無い、と言えるかと思います。

本当に愛のある神であれば、人間の三代欲求を制限するような掟を与えるでしょうか。

何度も言いますが、神自身が人間に与えた三大欲求です。

むしろ「よく食べて、よく寝て、よく愛して」この方が余程健全であり、愛を感じる言葉だと思いませんか。

祈るにしても、本当に神が光の存在であれば、太陽のある時間帯に人間と疎通しようとするでしょう。

そして神が男と女を作ったわけですから、むしろ、健全に愛し合えるように導くことこそ本当の愛ではないでしょうか。

性的なことを行うことが必ずしも悪だとは私には思えません。

愛し合った男女が、お互いを求め合うのは自然なことでしょう。

だって、恋愛感情を抱く時というのは、自分の意思とは無関係ではありませんか。

私は約50年生きて来て女性を好きになった時に、「俺はこの女性を好きになるんだ!」と思って強制的に、また意図的に相手を好きになったことなど一度もありません。

友人として付き合っていく中で自然と恋愛感情に発展したとか、一目惚れしたとか、そういった自分の意思とは関係なく異性を好きになるのではないでしょうか。

もしも「自分は強制的に意識的に異性を好きになった」と言う人がいたら教えてほしいくらいです。

「どうしてこの人を好きになったのか」と聞かれても「好きになったから」としか答えられず、具体的に答えられないはずです。

「こういうところが好き」と言うのは、好きになった後での自分が好感を持っている相手の特徴を述べているに過ぎないと感じます。

RAPT氏の「恋愛感情は罪だ」という言葉は、やはり理不尽だと言えます。

ただし、例えば男性が女性に抱く「この女性と性交渉をしたい」という一方的で身勝手な思いは駄目だと思いますが、好きになること自体は善悪の議論の対象外だと感じます。

私も信仰を持ってから一目惚れした女性がいましたが、別にその女性に対して「俺はその女性に一目惚れするんだ」と考えて一目惚れしたわけではありません。(笑)

そもそも一目惚れ程、無意識に芽生える感情はありません。

好きで一目惚れしたわけでもないのに、それを罪だと言われてしまえば、立つ瀬が無いわけです。

最後に、RAPT氏は実を言うと出口王仁三郎と全く同じ話をしているようです。

出口王仁三郎とは、RAPT理論で言うところの悪魔崇拝者の核心とも言えるような人物で、大本教という悪魔教を広めた人ですが、その教えと全く同じ教えを説いているようです。

キリスト教の教え=大本教の教え、だと言うのです。

いやあ、流石にこれには驚き呆れました。

以下のブログの記事を参照ください。

神の預言者がまったく罪がなく、心に一切の汚れもない聖人のような存在という考えは大きな間違いであるという話と、その他いろいろ。

信じるかどうかは皆さん次第ですが、説得力のある内容になっています。

結論としまして、私が改めて感じたことは、人間を大切にしなければならない、その一点だと思いました。

目に見えない神を愛するのではなく、目に見える人間を愛すべき、というのが正しい人間としての在り方だと改めて痛感しました。

このことについては、実は聖書自ら矛盾を述べています。

イエスは「神様を第一に愛し、隣人を第二に愛しなさい。」と言っているのに、使徒ヨハネは「目に見える兄弟を愛することができない者に、目に見えない神を愛することはできない。」と言っているのです。

これが矛盾だと分かりますか。

この二人は真逆を言っているのです。

まあクリスチャンの人達は、この内容を矛盾だとは1ミリも思わないでしょうが、このように人間に誤解を与えるようなことを書いている書物が本当に良い書物と言えるのでしょうか。

こういうのを「洗脳」というのです。

今回の記事の内容を読んだキリスト信者やRAPT信者は、とんでもない内容が書かれていると思うでしょうが、そういうことが問題なのではありません。

そういうところを問題としている時点で低レベルと言わざるを得ません。

正しいと信じていたこと=真理に対して、反論の余地が1ミリでもあることが大問題だ、というのが私の主張です。

1ミリどころではないですが。(笑)

反論の余地があるところに真理はありませんし、真理にはいささかも反論の余地があってはならないのです。

例えば100人いれば100人が正しいと判断し疑う余地が一切ないのが真理であるということです。

私がキリスト教から決別した理由が、普通の人達には理解できると思いますので、それだけで十分です。

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