今回の記事は天皇に関する話で、明治から令和を取り上げています。
昭和天皇に関する部分では、自ずと太平洋戦争に触れることになりますが、RAPT理論の解明が如何に出鱈目であるかについても少々触れています。
RAPTは、天皇が悪魔崇拝のトップであるかのような解明をしましたが、それも真っ赤な偽りだということです。
支配層が悪魔崇拝をやっているということ自体がRAPTの妄想であり、何度も私が言っていますように、悪魔崇拝をやっているのはRAPT自身であるということです。
従いまして、天皇に関するRAPTの解明は、根本に大きな誤りがあり、それが前提となっているため、ほとんど全てが出鱈目だと言っていいでしょう。
あらかじめ言っておきますが、私は物凄い時間をかけて調べているわけではなく、私自身の知識内と少々調べたことを踏まえて記事を書いています。
私がもしもRAPTのようにお金を取って記事を書いているならば、それこそRAPTみたいに机上でネットサーフィン的調査だけで済ませるのではなく、実際に様々な場所へ行ったり、然るべき専門家に会ったりして、調査のためにしっかりとお金と時間をかけて、自分の推理が本当に正しいかどうかを確かめる行動を取ります。
RAPT信者は「RAPT理論についてはお金を取っていない」と反論するでしょうが、私に言わせれば、RAPT理論が真実であるならば、宗教のことを有料記事にするよりも、むしろRAPT理論こそ有料記事にすべきであると考えます。
私の主張は、真実であればお金を取る価値のある内容だと言っているわけです。
しかしながら、今となってはRAPT理論の多くが出鱈目ですから、お金を取るなんて以ての外だと言うしかありません。
RAPT理論が嘘となれば、必然的に宗教に関するRAPTの話にも嘘があると考えるのが自然であり、RAPTの記事の全てを有料化するのは詐欺に等しいと言えるわけです。
ちなみにRAPTは、RAPT理論の解明のために、どれほどお金と時間を費やしていたのでしょうか。
まあ暇人でしょうから、時間はかなり費やしていたものと考えられますが、少なくともお金は全くと言って良いレベルで使っていないと断言できます。
確かに、放射能が嘘だということを解明するために、実際に福島へ行った動画を挙げていましたが、過去に私が記事に書きましたように、あれも物見遊山の範疇であり、旅行の延長線上の様なものであったと言わざるを得ません。
つまり、簡単に片手間で確認できる作業だった、ということです。
私の日本史に関する記事については、何度も言いますように、素人が勝手に推理して楽しんでいると思って下さい。
それでも、私の推理の方がRAPTよりも核心に触れている部分があるかもしれません。(笑)
それでは本題に入ります。
現在の天皇家は北朝だと世間では言われているようですが、「天皇家」ではなく「天皇」が北朝だと、即ち、現在の天皇である徳仁様が北朝だと推測しますが、私がなぜ現在が北朝であると推測したのか、そのことを明治、大正、昭和、平成に遡って書かせていただきます。
前回の記事で、明治天皇すり替えについて言及しましたが、それまでの朝廷は北朝であったと考えられます。
それこそ、室町時代の足利義満の時代まで遡りますが、この時に南北朝合一が成立しています。
しかしながら、この南北朝合一によって、北朝が代々天皇として君臨することになったのでしょう。
それを覆そうと本格的に動き出したのが戦国時代であり、幕末だったという推理はどうでしょうか。
「南朝が正統だ」という認識は、足利義満によって為された南北朝合一の時から何一つ変わっていなかったということでしょう。
実際に、室町時代から幕末にかけては、源氏が主に政権を握っていました。
室町時代末期の戦国時代では、幕府は飾り物の様な存在に成り果ててしまっていましたが、一応は源氏の政権が続いていました。
それを織田信長の登場によって、南朝の復活を本格的に始めた、ということかもしれません。
織田信長を語る際に、朝廷の問題についても言及されることがしばしばですが、当時の天皇家が北朝だったとすれば、南朝に変えようとしたと考えても整合性は取れます。
織田信長と豊臣秀吉の時代を安土桃山時代と呼びますが、この時代は平氏が支配権を握った時代だと考えて良いと思われます。
つまり、豊臣秀吉は平氏の人物で南朝方だったと考えていいかもしれません。
豊臣秀吉が征夷大将軍ではなく関白に拘ったのも、自らが天皇の様な立ち位置になりたい野心もあったでしょうが、南朝擁立の狙いもあったかもしれません。
歴史的には、源氏が征夷大将軍を名乗り、平氏が関白や太政大臣を名乗るといった具合になっています。
これだけ取っても、源氏の方が朝廷に仕えるという意思表示が強いようにも感じます。
そして、豊臣秀吉死後、天下は再び北朝系、つまり、源氏の徳川によって政権を奪い返されるということになったのでしょう。
思えば、源氏の支配の方が、平氏の支配よりも、遥かに長く支配権を維持しています。
江戸時代は1603年から1867年という約260年以上という長い歴史ですが、意外にも室町時代も結構長くて、1336年~1573年の約250年弱という長さなのです。
一方で安土桃山時代は、1574年~1602年という、僅か30年程度の長さです。
このこと(政権維持の長さ)はやはり、源氏の方が朝廷に対する忠誠心が厚かったからではないかと考えてしまいますね。
前置きが少々長くなりましたが、明治維新によって天皇が北朝から南朝に変わりました。
ちなみに世の中では、明治天皇すり替え説は表向きは当然ながら否定されていて、明治天皇は北朝だと言われています。
北朝である明治天皇が「南朝こそ正統だ」と認めたと言われていますが、北朝の天皇がわざわざ南朝の正統性に言及するとは信じ難く、ましてや、どちらが正統かなんていうことは自らの沽券に関わる話、つまりは自分が偽物だと主張したに等しくなるわけで、「北朝こそ正統だ」と言うに決まっている話でしょう。
勿論、言わされた可能性も指摘されそうですが、その場合は退位をしてでも拒絶していた可能性が高く、そのような混乱が生じていたような気配も無く、やはり明治天皇自身が南朝であるために南朝正統をすんなり認めた、と考えた方が自然でしょう。
明治天皇の「南朝が正統」発言は、明治天皇すり替え説の信憑性を物語っている一つの根拠とも言えるでしょう。
天皇自身が天皇に関する話をしているわけで、ここが大変重要だと私は考えます。
どう考えても、明治天皇は南朝の天皇であり、明治維新ですり替えられたのは真実だと考えて間違いないでしょう。
実際に、本当の明治天皇(孝明天皇の子供)とすり替えられた明治天皇を比較したサイトなども数多くあり、二人の特徴が全く違う点が幾つも書かれてありますが、そういう比較が存在している時点で、明治天皇すり替えが真実だと、多くの人達が思えないのも不思議な現象です。
別人が存在していなければ、そもそもが比較なんて出来ないでしょう。
そもそもが、二つ以上の人や物が存在していなければ比較のしようが無く、つまりは、比較している時点で、明治天皇のすり替えがあったことを認めている様なものなのです。
明治天皇すり替えの件は、北朝の孝明天皇が殺された上で為されたことであり、北朝系の人達(新羅系=源氏)が黙っているはずがありません。
そこで、私は推理してみたのですが、南朝と北朝で交互に天皇を擁立することで話がまとまったのではないか、と考えました。
要するに、鎌倉時代からあったように、南朝と北朝で交互に即位するという取り決めが、裏側で行われていた可能性も否定できないと感じます。
しかしながら、その取り決めを知っているのは一部の支配層に留まっているでしょうから、下の連中は何も知らされていませんので、明治以降、戦争や暴動が絶えなかったのではないか、と私は推理しています。
ということは、大正天皇は明治天皇の子供ではないと推測できます。
おそらくは、北朝の大正天皇が皇太子となり、本来ならば大正時代は北朝、昭和時代は南朝となる予定だったのでしょうが、大正天皇が余りにも病弱だったため、いつ死んでもおかしくないと考えた北朝側が、大正天皇の実子である昭和天皇を皇太子として据えて、摂政にまでさせたという推理はどうでしょうか。
大正天皇と昭和天皇は、目の垂れ具合が似ていると感じます。
ただ、親子にしては余り似ていないような気もしますが。
大正天皇の後、本来ならば南朝が擁立される予定であったのに、病弱を理由にそれを反故にされた平氏が関東大震災を起こして源氏に圧力をかけた可能性もあります。
関東大震災をウィキペディアで調べてみると、不自然なほど、震災の混乱に乗じて事件や暴動が発生しているのです。
当時はそういう時代背景だった(治安が悪かった)と言えばそれまでですが、大災害の直後で、1件や2件程度に留まっているならばまだ分かりますが、結構な頻度で事件や暴動が起きていますので、関東大震災が陰謀や策略だったのではないかと疑っても、何らおかしな話では無いでしょう。
実は、RAPTも同じような解明をしていますが、RAPTの主張は関東大震災によって大正天皇を殺そうとしたかのような話をしていますが、その可能性は極めて低いでしょう。
何せ、死の床に伏している様な天皇だったわけで、放っておいても近々死ぬことが想定されるわけで、わざわざ殺す必要性がありません。
そこで私は、関東大震災は昭和天皇(当時は皇太子であり摂政)を殺そうと狙った陰謀だった可能性があるのでは、と考えました。
実際に、関東大震災の3ヶ月後に虎の門事件と言って、昭和天皇が襲われた事件がありましたが、関東大震災の狙いは昭和天皇暗殺だった、という推理の方が、トンデモ推理だとしても頷ける部分があると感じませんか。
北朝の連続即位を阻止しようとした南朝側=平氏がいた、という可能性です。
そこで、大正天皇を早くに殺した可能性は有り得なくも無いと考えます。
暗殺とかではなく、延命措置を講じるのをやめた、ということです。
大正天皇の北朝としての即位は無かったことにして、昭和天皇を北朝として即位させたということです。
私がそう考える一つの理由としまして、大正天皇の誕生日が祝日化されていないためです。
そう言えば、平成時代の天皇で現上皇様である明仁様の誕生日も祝日化されていません。
上皇様は未だ存命だから、という言い分もあるでしょうが、「上皇誕生日」として残しておいても良かったはずなのです。
国民の立場としては、祝日が減る話なので損をしている様な気分にもなりますが、支配層にとっては、もはやどうでもいい話なのかもしれません。
昭和天皇の誕生日が「昭和の日」として残されたのも、GWだからなどの国民に対する配慮等の理由ではなく、おそらくは北朝の象徴として制定されたものと推測されます。
当初は大正天皇の誕生日を祝日化しようという動きはあったかもしれませんが、昭和天皇の誕生日を祝日として残せばいい、と北朝が考えた可能性もあります。
だから、同じ北朝である大正天皇の誕生日は祝日化されていないのではないか、と私は推測します。
実際に、明治天皇の誕生日は「文化の日」といって祝日化されていますが、南朝の象徴として制定されたということではないでしょうか。
お互い平等に、という話です。
私の推測では、今後は天皇の死後、天皇誕生日が祝日として残ることは無いと考えています。
残す意味が、南朝にも北朝にも無いと言った方がいいかもしれません。
話を元に戻しますが、昭和天皇が即位して間もなく、515事件や226事件が起きているのです。
これは、北朝の連続即位が気に食わない平氏によって、まずは515事件が起きたのではないかと推測します。
明治から戦前の日本は、天皇主権の国家でしたから、天皇が南朝であるか北朝であるか、という話は極めて重要だったと考えられます。
515事件は犬養毅が海軍将校に暗殺された事件です。
RAPT理論では、陸軍=秦氏(平氏)、海軍=出雲族(源氏)となっていますが、これは大きな間違いです。
ネットで調べてみると、「源氏陸軍」とか「平氏海軍」という言葉が出て来ましたが、陸軍は源氏である可能性が高く、海軍は平氏である可能性が高いということです。
RAPT理論とは真逆です。
思えば、昔から海軍を指揮していたのは平氏側です。
源平合戦の時、海軍を利用したのは平家側であり、歴史上有名なのは毛利の村上水軍ですが、毛利は平氏です。
こうして振り返ってみますと、日本史に関するRAPT理論は実に整合性が取れない話が多過ぎます。
もしも、陸軍と海軍の認識が真逆であれば、RAPTはとんでもない嘘つき人間となります。
しかも、それを堂々と自信満々に語っているわけですから、これほどみっともない話はありません。
支配層から大笑いされていると推測できます。(笑)
さて、226事件は陸軍将校たちによって起きていますが、515事件の意趣返しにも見えなくも無いです。
犬養毅が北朝系(源氏)であれば整合性が取れてきますが、どうなのでしょうか。
ウィキペディアでは、犬養毅は元々は江戸幕府側だったようなので、北朝系とも考えられなくもありませんが、根拠としてはイマイチでしょうか。
226事件は陸軍将校らの昭和天皇に対する謀反のような暴動事件です。
陸軍が源氏であれば北朝ということになり、昭和天皇が北朝であれば、一見すると矛盾を呈することになりますが、昭和天皇からすると味方の裏切り行為であり、だから激怒したのでしょう。
515事件により、政府内に南朝方が入り込むようになったために、北朝の陸軍が不満を抱いたという推理です。
推測ですが、当時の政府は昭和天皇の意向が含まれた陣容だった可能性もあり、それを襲った陸軍将校は本来ならば味方であるはずなのに裏切り行為だと判断し、だから許せなかったのでしょう。
それ以降、昭和天皇は海軍=平氏に肩入れするようになったのかもしれませんが、分かりません。
RAPT理論では、226事件をきっかけに昭和天皇が海軍と組み、海軍のトップである山本五十六がアメリカと組んで日本を裏切ったと主張していますが、もしもそうであれば、もっと当時の日本を理解したGHQの対応にならないと矛盾だと思いますが、むしろ起きていることは、どう考えてもアメリカを怒らせてしまったために起きたGHQの日本に対する対応でした。
確かに、終戦後、処刑されたのは陸軍側で海軍側は誰一人として処刑されなかったようですから、一見するとRAPTの主張が正しいように映りますが、私は北朝である陸軍に責めを負わせた、と見ています。
昭和天皇も北朝でしたから、当時の日本の支配権は北朝にあり、だから北朝側に敗戦の詰め腹を切らせた、という推測は如何でしょうか。
だいたい、アメリカと手を組んでいたことが事実だとしたら、それこそ現代において大問題では無いでしょうか。
日本をアメリカに売った張本人として、昭和天皇も山本五十六始め海軍も、大罪人として今でも語り継がれていることでしょう。
RAPTが暴くまでも無く、支配層の誰かが世に暴露する、それ位の内容だと考えられます。
日本の支配層が源氏と平氏で争っている以上、必ず相手の弱みは表に出したいと思うはずですから、ましてやアメリカと裏で繋がっていたとなれば尚更でしょう。
起きた出来事について、原爆の件もそうですし、憲法を大きく改正させられたこともそうですし、昭和天皇の人間宣言もそうですし、アメリカと手を組んでいたにしては、余りにも日本に対する対応や天皇に対する対応が、懲らしめている感満載なのです。
しかも、降伏という形で終戦しているわけで、明らかにアメリカに屈服させられたと言えるでしょう。
手を組んでいたならば、和睦という選択肢もあったはずなのに、それを話し合っている様な事実はありません。
つまり、太平洋戦争や第二次世界大戦に対するRAPTの解明も、出鱈目が多過ぎる、辻褄が合わないことが出て来る、ということです。
そもそもが、RAPTに解明できるほど、第二次世界大戦は簡単明瞭なものでは無く、だからこそウィキペディアの内容もかなりの量になっているわけでしょう。
RAPTはロックフェラーとロスチャイルドの抗争だと主張していますが、そんな単純な構図ではないですし、そもそも出雲族と秦氏の抗争だと主張している時点で、核心から大きく反れているというわけです。
そもそもが日本の支配層が秦氏である以上、秦氏がアメリカに敗北した、という話なのです。
日本の支配層の正体が秦氏であり、アメリカの支配層の正体が分かればいいのですが、私は世界史に関しては大変疎いので分かりません。
何度も言いますように、だからユーチューブの読者対談は削除されないで、いつまでも残されているのです。
太平洋戦争に関して、源氏と平氏が秦氏として共同戦線を張り、結果として源氏も平氏もアメリカに敗北した、その責任は当時のトップであった昭和天皇にある、と考える方が自然でしょう。
真珠湾攻撃は、アメリカに対する日本の不意打ちであり、アメリカを激怒させるには十分だったと言えるでしょう。
だから原爆投下があり降伏を余儀なくさせられ、昭和天皇は人間宣言をさせられ、天皇主権の憲法から国民主権の憲法に変えられ、日本は基本的に戦争の出来ない国にさせられ、当時の皇族はその身分を剝奪され、神的な立ち位置から一般庶民と変わらないという立場まで落としたわけで、もしも昭和天皇が反抗していたならば、本当に日本はアメリカに潰されていたかもしれません。
昭和天皇に対して、GHQはあたかも、退位を迫ったかのような対応にも感じ取れなくも無いのです。
昭和天皇が大人しくGHQの言うことを聞いたので、昭和時代は64年という長さを維持できた可能性が高いのですが、戦後の日本は、陸軍源氏が責めを負わされた見返りとして、支配権をこれまで通り握るということで、日本国内で決着したのではないでしょうか。
もしも、昭和天皇がGHQに盾突いていたならば、早くに殺されていた可能性も考えられますから、それこそ昭和時代は20年程度で終わっていたかもしれません。
もしかしますと、日本において天皇制が廃止され、元号も廃止され、秦氏の支配から新たなアメリカ側の支配体制に変革していたかもしれませんが。
ちなみに、昭和天皇が北朝である根拠の一つとして、戦後すぐに起きた熊沢天皇事件が挙げられます。
実は私も調べていて初めて知ったのですが、熊沢寛道という人物が「自分こそ南朝の正統な後継者だ」と言い出したことが契機だったようですが、戦後すぐに新聞社がそれを取り上げたようで大騒ぎになったらしく、ご興味のある方は調べてみて下さい。
「戦後すぐ」というのが面白いですね。
戦後、昭和天皇が退位するものと考えていた南朝の人達がいたのではないかと勘繰っても仕方ない位のタイミングです。
次第に相手にされなくなったようですが。
それでも、源氏と平氏の日本国内での支配権を巡る争いは絶えることなく、昭和末期になるにつれて平氏の勢いも増してきたのかもしれません。
それでJAL123便墜落事故が起きた可能性もあります。
北朝が南朝を叩き潰そうとした事故だったのかもしれません。
そして、昭和天皇の死が近いとなったために、南朝系は大人しくしていて、昭和天皇の死により南朝の上皇様の即位により「平氏が成る」と宣言し、南朝=百済系の時代到来だ、という意思表示をした可能性があります。
元号に平氏の平を用いたわけですから、南朝側の並々ならぬ決意が伝わってくる感じもあります。
何せ、大正時代から南朝即位を待たされたわけですから尚更でしょう。
よって、昭和天皇と上皇様も、親子関係に無いと推測できます。
実際に、以下の画像をご覧いただければ分かると思いますが、全然似ていませんからね。

この3人、本当に親子関係があるのかと疑われても仕方が無い位、似ていません。
垂れ目の昭和天皇に対して、上皇様と徳仁様の目は横真っすぐな感じです。
少しくらい、垂れ目であってもいいでしょう。(笑)
鼻の形なんて三者三様ですよ。
男性の特徴として、幼い時は母親に似ることが多いですが、成長するに従って父親そっくりになってくるのです。
瓜二つとなってもおかしくないはずで、ところが瓜二つどころか、血縁があるのか疑わしい位に似ていません。
もしかしますと、北朝同士、昭和天皇と徳仁様は血縁関係があるかも分かりませんが。
前回の記事でも触れましたが、上皇様は明らかに南朝の天皇であることを自身で認めているくらいですから、平成時代はやはり南朝が支配権を獲得した時代だと考えて良いでしょう。
となりますと、普通に考えて、上皇様の後継者となった徳仁様は、南朝の天皇だと誰もが思いそうです。
ところが、徳仁様は自身が北朝であるかを臭わすような発言をしているのです。
上皇様が桓武天皇に触れたように、徳仁様は花園天皇に触れています。
そこで、花園天皇を調べてみますと、この天皇は鎌倉時代の天皇で持明院統でした。
持明院統は北朝系、つまりは新羅系です。
実際に花園天皇のウィキペディアにも、「南北朝分裂後、北朝を支援した」と書かれてありました。
花園天皇は紛れもなく、北朝なわけです。
その天皇について徳仁様が語っていたわけで、徳仁様が北朝である一つの根拠に成り得るわけです。
徳仁様は、学問のことについて花園天皇を持ち出したわけですが、それこそ天皇は百人以上いるわけで、わざわざ花園天皇のことを語ったのには、絶対に理由があるはずです。
やはり、自身が北朝であることを知っているから、としか思えないわけです。
花園天皇は鎌倉時代の天皇であり、当時の天皇が北朝なのか南朝なのかが分かり易い時代でもあるのです。
令和という元号で、昭和の和を使っていることも、北朝だからと言えるのかもしれません。
また、大正と昭和も、漢字のしりとり遊びの様な、つまりは「繋がっている」という印象さえ漂うのは私だけでしょうか。
ちなみに、エスペラント語で令和の意味は卑猥な意味があるとRAPTは言っていますが、まさに支配層に踊らされている感ありありです。(笑)
「令和」には、北朝の意味が込められている可能性が大いに考えられます。
そう言えば、令和元年は5月1日から始まりましたが、4月29日が昭和の日ということもあり、だから5月1日にした可能性も考えられます。
4月29日=昭和=北朝、4月30日=平成(最後)=南朝の終わり、5月1日=令和(最初)=北朝の再幕開け、ということです。
やはり、平成から令和は、南朝から北朝に変わったというメッセージが込められている様な気がしてなりません。
また、現在は皇太子がいないようですが、秋篠宮様(おそらく南朝)が皇太子になっていないのは、令和天皇が寿命を全うした場合、秋篠宮様が天皇として即位すれば、それこそ高齢となり、南朝時代が短命に終わる可能性があるから、という考えは余りにも勘繰り過ぎでしょうか。(笑)
悠仁様がお生まれになった時に、皇位継承問題が片付いたみたいに歓喜の和に包まれたような雰囲気でしたが、南朝が大喜びしたのでしょう。
最後に、上皇様が生前退位をした事情を私なりに考えてみました。
上皇様は体調面を理由に退位しましたが、当然ながら表向きなはずであり、絶対に別の理由があったはずです。
体調面を理由とするならば、明治天皇も大正天皇も昭和天皇も生前退位が有り得たでしょうが、実際には崩御するまで退位することはなく、上皇様だけが生前退位をするのも不自然な気がします。
先ほど、秋篠宮様の件を書きましたが、同じような理由が考えられるのではないでしょうか。
つまり、上皇様が崩御する頃には徳仁様の即位が70歳に近いかもしれない、となると北朝時代が短命に終わる可能性も否定できません。
意外にも長生きしている上皇様に、まだかまだかと即位を待ちわびている北朝が、「あなたが57歳で即位したように、徳仁様も同じように57歳で即位させてやってくれ」と要望した可能性があります。
それで上皇様は2016年に退位の意向を示し、北朝に皇位を譲ることを宣言したのだろうと考えられます。
宮内庁は始め否定したようですが、天皇が南朝であれば宮内庁も南朝だったはずで、「なぜだ!!」となるのは当然であり、だから「報道がデマだ」と世間に伝えたわけでしょう。
南朝の反発はかなりあったと思います。
徳仁様は1960年お生まれのようで、即位された2019年には59歳になられていましたので、57歳に間に合いませんでしたが、何とか50歳代で即位させることができたというわけです。
上皇様の生前退位は、徳仁様を上皇様と同じ年齢で即位させることは勿論、北朝時代を少しでも長くするための措置だった、という私の推理です。
あと、長期政権だった安倍政権が2020年に終わりましたが、もしかしますと南朝から北朝に変わったことと関係しているかもしれませんが、機会があれば推理したいと思います。

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