RAPT氏の言葉に真理はありません。その22                                           ~今回のトパズの証に書いてある「新たなアダムとエバの誕生」の意味するところ~(後)

後編となる今回は、「新たなアダムとエバの誕生」の意味するところの結論になりますが、前回の記事でRAPT集団の崩壊の序章だと書きましたが、RAPT集団の終焉の幕開けを示唆している、と私は感じています。

RAPTの活動期間(使命期間)が終わるのが2035年と本人が言っていますが、丁度10年後ということになります。

ここからRAPT集団の崩壊が始まり、10年をかけて完全崩壊が待ち受けているという私の予想です。

それでは早速、説明をさせていただきます。

アダムとエバについてもRAPTが語ったとトパズさんが証言していますが、アダムとエバについては、しっかりとKさんが暴いています。

以下のKさんの記事を読まれていない方は、先に読まれると今回の記事も理解しやすくなるかと思われます。

三貴神とはアマテラス=エバ=創造主ガブリエル、スサノオ=アダム=救世主ミカエル、ツクヨミ=現在神であるルシファーであり、イルミナティが信じているのはルシファーの支配の終わり、そして救世主としてのスサノオの降臨であるというお話(2020/06/10)

これまで私は、Kさんのブログを紹介するだけで、具体的な記事を張り付けることをしていませんでしたが、今回のアダムとエバに関する内容については、キリスト教の従来の解釈は間違いであり、Kさんの解き明かしの方が整合性が取れていると判断したためです。

おそらくはKさんの主張が真実だと考えられますが、私は「真実かどうか」で判断していると言うより、「矛盾が無い、整合性が取れている」という判断を優先しています。

Kさんはこれより約1年後の記事で「アダムとエバは夫婦関係ではないし、人間のような生殖機能を持っていない」ということも暴いていますが、そうなりますと、アダムとエバに対するキリスト教の解釈が根本から崩壊することになるわけです。

と言いますか、アダムとエバに関する従来のキリスト教の解釈は、全くもって出鱈目もいいところだと私も断言します。

その根拠を私なりに書かせていただきます。

RAPTは、女性の基準者が決まったことで、「新たなアダムとエバの誕生」と言っているようですが、前々回の聖書に関する記事では触れませんでしたが、アダムとエバのことも異性の罪を犯して堕落したと考えると、明らかに矛盾が生じるのです。

その話の前に、前回の記事でミナさんが女性の基準者を外される根拠として、RAPTの人間性を挙げましたが、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、実は4~5年前に今回と全く同じ出来事が起きていましたので、私はミナさんが女性の基準者を外されると断言して書いたということです。

2020年か2021年に、エリカさんという女性がRAPTの元にやって来まして「彼女はRAPTと二本のオリーブの木となる」とRAPT自身が発言していたのですが、RAPT自らそれを無かったことにしているのです。

「二本のオリーブの木」というのは、中心者(現代ではRAPT(自称))と女性の基準者、あるいは、女性に限らずRAPTの右腕のような存在、のことで、表現方法が違うだけで、4~5年前に今回と同じことをやっているというわけです。

要するに、RAPTらの活動は同じことの繰り返しであり、従いまして、今回も必ずこの時と同じことが起きると断言できるわけです。

そもそもが、ルシファーにもRAPTにも、神の歴史を成すつもりなんか、微塵も無いからです。

神の歴史を成そうと急いでいるような人が、犬の世話などしている暇は無いはずでしょうし、写真集を作ったり、賛美歌を作ったりするような暇も無いはずでしょう。

なぜならば、ほとんどの人達が、RAPTの言う「救い」とは無関係にあるからです。

10年以上も経過して、ほとんどの人達が救われていない現状を鑑みれば、RAPTにも神にも、人々の救いのための歴史を成すつもりは微塵も無い、と言われても仕方が無いと言っているのです。

話を元に戻して、「アダムとエバが蛇に騙された」というのがどういうことなのか、Kさんのブログの記事を参照して、私なりに解説をしたいと思います。

アダムは蛇に騙されたエバによって異性の罪を犯したことになっていますが、まず、この解釈自体が間違っている、つまり、RAPTの解説は見当違いも甚だしいということです。

聖書によれば、アダムは神から選ばれた義人であり、エバはアダムによって誕生した義人であり、蛇は悪魔の象徴(サタン)です。

エバは蛇によって「園の中央にある善悪を知る木の実を食べれば目が開ける」と唆されたことになっていますが、そうではありません。

RAPTの解説では、「園の中央」とは「人間の生殖器のこと」と極めて下品な解説をしていますが、この時点でおかしいと気付くべきなのです。

「園の中央」と聞いて「人間の生殖器」と解釈するのは、余りにも突拍子過ぎて思いも寄らない解釈だと言えるでしょう。

どこの誰が、自然にそのような解釈が出来ると言うのでしょうか。

教えてもらわないと、絶対に解釈できません。

「園の中央」とは、その名の通り「場所の真ん中」と解釈するのが妥当だと感じるのは私だけでしょうか。

聖書を読んでも明らかに、「園」は人ではなく場所を表して書いているようにしか感じません。

「エデンの園」が地球のこと、あるいは、神が存在している場所だと考えれば、「園の中央」とは地球の真ん中、あるいは、神が存在している場所の真ん中、と解釈するのが自然であり、まともな人間の考え方ではないでしょうか。

「場所の真ん中」を分かり易く理解しようとすれば、例えば「全世界の中心」と解釈できなくも無いでしょうし、つまりは「真の神が存在している場所」と考えたら如何でしょうか。

そう言えば過去に、「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマがありましたが、ある意味では、真の神の存在を示唆しているドラマなのかもしれません。※私の勝手な憶測です。

要するに、「本当の神が存在している世界に本当の善悪があるから、それを知れば全てが理解できる」という解釈が妥当なのです。

つまり、「アダムとエバの目が開けた」という本当の意味は、「神の正体はルシファーであり、アダムとエバは、そのルシファーによって騙されていたことが分かった」という意味で理解すると、現実との比較の上で筋が通って来るのです。

「アダムとエバは蛇に騙された」のではなく、「アダムとエバは蛇によって真実を知らされた」という解釈をすべきなのです。

だいたいが、「エデンの園」を地球と解釈しているわけですから、「園の中央」を地球の真ん中と解釈するならばまだしも、どこをどう考えたら人間の生殖器となるのか、だったら「エデンの園」は人を表していないと駄目でしょう。

「園の中央」とは明らかに場所を表していると考えた方が妥当でしょう。

アダムとエバは聖書の神(=ルシファー)によってエデンの園から追放されていますが、それはそのまま「ルシファーによって地球から追放された」という意味だということです。

無理矢理解釈しようとするのではなく、むしろ、直訳した方が意味が通って来るということです。

蛇のことを悪魔とかサタンとか解釈していますが、これはルシファーによる悪意であり、真の神のことを愚弄して表現しているわけです。

「蛇=真の神」あるいは「蛇=真の神の使い」と考えても、ルシファーにとっての真の神は憎たらしい相手なわけですから、悪魔呼ばわりすることにも整合性が取れるでしょう。

アダムとエバに関する話は、そのまま解釈すべきだということになるのです。

そもそもが、「園の中央にある善悪を知る木の実を食べる」ことを、どうして「性交渉を行った」と解釈するのか甚だ不思議でなりませんし、もっと言えば、ドスケベで変態人間がやりそうな解釈ですよ。(笑)

「園の中央にある善悪を知る木の実を食べることで目が開ける」=「性交渉を行うことで正常な善悪の判断が出来る」とキリスト信者は言っている様なもので、そのような考え方を持つ人間が、どこの世界にいますか。

そのように教えられて「はい、そうですか」と騙される人間がいたとしたら、どう考えても頭がおかしい変質者であり、気が狂っているとしか思えないでしょう。

そのような人間が神から選ばれた使命者だなんて、もはや笑うしかないでしょう。

アダムとエバが騙されたということは、その騙され方さえ尋常ではなく、矛盾を通り越して有り得ない話になって来るのです。

このように考えれば、RAPTの解釈、ひいては、キリスト教の解釈が、如何にスケベオヤジ的な解釈を施しているかが、よく分かるでしょう。

私が「聖書とアダルトビデオは同等だ」と、前々回の記事で書いた意味も理解できるでしょう。

アダムとエバの関係性というのは、聖書に書いてある経緯からしても、現代で言うところの夫婦関係と捉えても差し支えは無く、従いまして、仮に性交渉をしたとしても何が問題なのか、ということなのです。

「その時点ではまだ結婚していない」とRAPT信者とキリスト信者は反論するのでしょうが、聖書には創世記第2章の最後に、結婚を感じさせる文章が書かれてあります。

「二人は一体となる」と書かれてありますが、これをもって結婚と考えるのが当然でしょう。

まともなキリスト信者であれば、この部分が二人の結婚を示す聖句だと捉えないと駄目でしょう。

ということは、アダムとエバが蛇に騙されるのは結婚後ということになり、異性の罪は全く当たらないことになってしまいますが、キリスト信者の皆さんに、いや、RAPTに、アダムとエバの異性の罪について合理的に説明してもらいましょうか。(笑)

まあまず無理でしょう。(笑)

ましてや聖書を読むと、アダムとエバが性交渉を行ったと判断できるのは、アダムとエバが蛇に騙された後ですよ。

キリスト信者の皆さん、しっかりと聖書を読んで下さい。

アダムとエバが蛇に騙されたのは創世記の第3章で、アダムとエバが性交渉を行ったと考えられるのは創世記の第4章ですよ。

創世記第4章の冒頭に「アダムがエバを知った」と書かれてありますが、それが性交渉を示す内容と捉えるのが自然でしょう。

とどのつまりは、聖書自らやらかしている感を伝えているわけで、あるいは、聖書は故意にアダムとエバの異性の罪に対する矛盾を記載しているわけで、ここの部分だけでも「あれ?」と、我々は従来の解釈に疑問を持つべきなのです。

聖書の作者は馬鹿そのものか、そうでなければ、意図的に読者を騙すように仕組んだと言えます。

アダムとエバが異性の罪を犯したという前提を作っているにも関わらず、順番が滅茶苦茶なわけです。

アダムとエバが蛇に騙されたと仮定して考えると、このように矛盾を露呈して来るわけですが、矛盾のあるところに嘘があるわけで、嘘を付くということは、そこに隠しておきたい何かがあるということになり、つまりは、その部分には重要な別の意味が隠されていると考える方が妥当なのです。

ルシファーにとっては、アダムとエバは敵のような存在であり、現代に至るまで両者を貶める様な筋書きにするのも非常に納得出来るわけです。

実際に、このような淫乱な解釈を施してアダムとエバのことを読めば、またまた別の矛盾が生じるのです。

すなわち、エバが蛇(サタン)に騙され、そのエバの主張を受け入れたアダムは、蛇(サタン)に騙されたということになり、これはどういうことを意味しているかと言いますと、蛇(サタン)の方がアダムとエバよりも賢い、つまりは、悪人の方が義人よりも賢い、ということを意味して来るのです。

これは、矛盾もさることながら、矛盾を通り越して、キリスト信者にとっては極めて重大な問題になりますよ。

だって、義人は悪人に勝てないかのような話になってしまうので、キリスト教の信仰を持つ必要性を根本から失うような話になってしまうからです。

そもそもが騙される人に対して、聡明で能力優秀な人間に感じますか。

馬鹿だから騙される、と考える人が圧倒的でしょう。

ゆえに極論を言えば、「アダムとエバが異性の罪を犯した」という解釈は、アダムとエバは神の使命者でありながら、単なる馬鹿でノータリンだったという話になってしまうのです。

神の使命者よりも悪魔の方が賢くて偉いと主張している張本人、加えて、アダムとエバを愚弄している張本人は、驚くことに、キリスト信者そのものだとなってくるわけです。

義人が悪人によって簡単に騙される事実があってはならないのは勿論、神の使命者たる者がノータリンのような事実があってはならないわけですが、それがいとも簡単に生じたかのような記述になってしまうのです。

そこには、ルシファーの悪意がかなり盛り込まれているでしょうし、そうなりますと、ルシファーとアダムとエバの関係性も見えて来るでしょうし、その上でKさんの記事を読めば、より一層納得感を得られることでしょう。

Kさんによりますと、「ルシファーによってアダムとエバは無実の罪を着せられた」と主張していますが、無実の罪であればこそ、妙な解釈を施すのも道理と言うわけです。

世の中でも、冤罪には不自然で妙な言いがかりが必ずありますが、それと全く同じです。

そう言えば、RAPTの恩師である鄭明析氏も痴漢冤罪だと耳にしましたが、これもまた性的な言いがかりを付けているわけで、アダムとエバに関する話と全く同じ構図ですよ。

何かあればキリスト教と性的なことが密接に関係してくるという、おかしな現象が生じているのです。

まともな宗教なはずなのに性的なことばかりですよ。(笑)

実際にRAPTの元には女性信者ばかりが集結しているわけで、これもまた性的な言いがかりを受け易い状況が生まれているということです。

アダムとエバのことは、RAPTの解釈のように馬鹿げていて間抜けたようなものではなく、相当に奥が深い話なのです。

馬鹿で無能者は、一生、アダムとエバは異性の罪を犯したと思っていればいいのです。

以上のように、アダムとエバが異性の罪を犯したと考えると、矛盾ばかりが生じて滅茶苦茶なことになってくるわけで、故に、アダムとエバが異性の罪を犯したという話は出鱈目だと私は断言しているのです。

続きまして、RAPTは「新たなアダムとエバの誕生」と言って喜んでいるようですが、そもそもがアダムとエバの歴史について、加えて、アダムとエバが成したことについて、聖書を読んでも具体的に全く書かれてありません。

せいぜい、騙されて異性の罪を犯して堕落した(RAPTの解釈)ことくらいなもので、それ以前までにアダムとエバが具体的に神の下で何を成し得たのか、全く記載がありません。

二人が異性の罪を犯すまで、どのような活動を行っていたのか全然分からないのに、「新たなアダムとエバの誕生」と表現すること自体が適切ではなく、全くもって意味不明なわけです。

例えば、日本の歴史を語る時に、過去の偉人がどのような活躍をしたのか、具体的に語ることができますよね。

だからこそ、現代でも「維新の会」などの政党名を付けて「明治維新の様なことを成し遂げたい」「世の中を革新したい」という思いを伝えるわけでしょう。

その前提で「新たな誕生」と表現するならば理解も出来るのですが、何も成し得ていない連中に歴史もクソも無いでしょう。

逆にKさんの解釈を基に「新たなアダムとエバの誕生」を語るのならば納得ですが、それこそ、RAPT達の理論では、異性の罪を犯して堕落したことがアダムとエバの歴史となるのでしょう。

RAPTが言う「新たなアダムとエバの誕生」とは、壮大な異性の罪でも犯すということなのでしょうか。(笑)

もはやRAPT集団は、支離滅裂状態の中にあると言っていいでしょう。

何も、自分たちのことをわざわざ「アダムとエバ」になぞらえる必要性は無いでしょう。

「新たなイエスの誕生」などの表現の方が、遥かにましでしょう。

RAPTが主張する「新たなアダムとエバの誕生」とは「義人が悪人に改めて騙される」つまり「RAPTとミナさんがルシファーによって与えられる新たな絶望の幕開け」という意味にしか、私には考えられないのです。

要するに、ここからがRAPTの崩壊が始まるサインだということを意味している可能性があるのです。

順番から言って、RAPTが絶望のどん底に突き落とされるのは一番最後でしょうから、ミナさんの方が先に真実に目が覚める可能性があるでしょう。

先ほど書きました「園の中央にある善悪の木の実を食べたら目が開けた」というのがアダムとエバの歴史ということになり、これはミナさんが真実に気付くということを示唆している可能性が高いというわけです。

実際に、エバの方が先に真実を知ったわけですから。

ミナさんが女性の基準者を剝奪された時に、絶望のどん底の中からRAPTの神の本当の正体がルシファーであることを悟るということでしょう。

今はまだ、RAPTに洗脳されていて目が塞がれている状態なので、ミナさんに「あなたが崇拝している神は実はルシファーだ」といくら伝えたところで全く相手にもしないでしょうが、目を開かれてしまえば、その事実を受け入れることになるわけです。

基準者を外された時に目が開くということになるでしょう。

そして、絶望はやがて恨みへと発展し、川田さんやナナさん、トパズさんを巻き込んで、RAPTへの復讐を企むことになるのかもしれません。

それほどに、ミナさんが女性の基準者を外される出来事は、RAPT信者にとって理不尽極まりない出来事だということです。

よって、彼女たちだけでなく、RAPT信者の中からもRAPTに牙を向く人が出て来ることでしょう。

いや、そればかりでなく、RAPT信者の家族や親類縁者からも、RAPTは牙を向けられることでしょう。

まさに、イエスの最期の様な状態になるというわけです。

そしてRAPTは、気付けば四面楚歌状態になり、アダムのように裸丸出しであることに恥ずかしさを感じて、その身をどこかへ隠すしかなくなる、即ち、逃亡者になるというわけです。

逃亡の末RAPTは、当然ながら冤罪ではなく、本当の犯罪=詐欺により逮捕されるというわけです。

最終的には、アダムが地球上から追放されたように、RAPTとルシファーが地球上から追放される、という意味にも取れなくも無いわけです。

RAPTが地球上から追放されるというのは、無期懲役の刑を受けるか、死刑判決を受けるか、みたいな感じでしょうか。

旧約聖書と新約聖書が見事に繋がっている感じさえ漂ってきますね。

旧約聖書の序章である創世記の最初で、RAPTがどのような運命を辿るのかその結果を示し、新約聖書の最終章であるヨハネの黙示録でその過程を描いている、という私なりの考察です。

つまり、聖書のその他の部分は、極端に言えばどうでもいいのです。

実際に聖書でも、神(ルシファー)は自分のことを「アルファでありオメガである」と主張していますが、「最初と最後」と言う点においても整合性が取れて来るでしょう。

RAPTが自ら主張した「私は聖書の歴史を締めくくる最後の使命者だ」という内容に、物凄く整合性が取れると感じませんか。

そうです。

RAPTの役目は、神の歴史を完成させると言うのは別の意味で正しく、つまりは、聖書の内容を身をもって実現させる使命であり、ルシファーに使われる使命者の中で一番最後だということでしょう。

よって、RAPTの後継者となる人は誰もいないということになるでしょう。

RAPTのやり方というのが、聖書と同じであることにどこまでも拘っているのも頷けるわけです。

どうして十二弟子の任命に拘るのか、どうしてアダムとエバに拘るのか、その理由も納得出来るわけです。

RAPTは、新しいものを好むどころか、古いものばかり好んでいますよ。(笑)

結論として、トパズさんの証は「ルシファーによるRAPT集団の終焉の幕開け」の可能性を示唆している証だと考えられる、と同時に、RAPTがどのような最期を遂げるのか示唆している証だと考えられる、という私の主張になります。

今回の記事について、あくまで私個人の推測・考察であり、Kさんの記事と多少違う部分があるかもしれませんが、そこはご容赦ください。

面白いと思っていただければ幸いです。

Kさんは啓示を受けながら記事を書かれていますので、当然ですが、その内容の信憑性は高いわけで、アダムとエバに関する詳細はKさんの記事を参照して下さい。

その上で、聖書がお手元にある方は創世記第3章を読んでいただければ、Kさんの主張とかなり合致してくると思われますよ。

蛇のことも「最も賢い」と表現されていたり、神がアダムとエバと蛇を憎んでいると思わせる内容にもなっていますから、本当の意味を分かって読んでみますと、改めて面白く感じます。

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