皆さま、明けましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いいたします。
今年も当然ながら、RAPTに関する記事を書いていくつもりです。
そう言えば、RAPT理論+αのサイトは1月1日の記事の更新を休んでいましたが、RAPT集団は正月休みを過ごしてでもいた、ということなのでしょうか。
正月とは、そもそもサタンが作り出した行事なはずであり、仮に正月を満喫していたとするならば、全くもって言語道断だという話になり、信者をなめた話でもあります。
やはり、RAPTの神はルシファーだと考えれば、正月休みだってさせるでしょう。
さて今回は、日本史に関するRAPT理論の崩壊に繋がる話をさせていただきます。
結論から言わせていただくと、源氏は出雲族ではなく、秦氏の末裔である可能性が非常に高いことが判明しました。
RAPT理論では、やたらと秦氏対出雲族の構図が語られていますが、実はこれこそが大きな間違いではないかと私は考え出した次第です。
単純に「源氏なのか平氏なのか」で考えた方が、日本の歴史についても整合性が取れるのではないか、と思った次第です。
と言いますか、日本の歴史に登場して来る人物達だけでなく、現代における日本の支配層の人達でさえ、実は秦氏の末裔ではないのか、という考えさえ私は持ち始めました。
私もまだまだ勉強不足だということですね。
秦氏と出雲族の抗争と考えるから、時代によっては訳が分からない状態になっていたのですが、きっかけは先日、私の源頼朝に関する記事にコメントを下さった方がいて、「源氏=秦氏」だと言うのです。
アカウント名がそのまま「源氏=秦氏」という方でした。
正直なところ、目からうろこでした。
そこで私は、ネットで源氏が秦氏なのか調べてみました。
すると、二つの記事に辿り着きました。
ご興味のある方は読んで下さい。
一つ目に紹介した記事の中に重要な内容があり、それは「新羅系秦氏(源氏)と百済系藤原氏(平氏)との争い」と書かれてありました。
これこそが真実だろうと思えてなりませんでした。
実際に、源頼朝や源義家、源義光などは、秦氏に因んだ名前を自身や子供たちに付けています。
八幡太郎義家、新羅三郎義光、一幡、千幡など、「幡」は秦氏に通じる名称のようで、源氏一族は自分たちが秦氏の末裔であることを、名前に付けることでその証拠をことごとく残していると言えるわけです。
日本においては、秦氏同士の戦い、つまりは源平合戦が現代に至るまで続いていると考えた方が妥当なのかもしれません。
RAPTも始めの頃は源平合戦と言っておきながら、いつの間にか秦氏と出雲族の争いと言っていますが、当初に言っていた源平合戦で良かったということでしょう。
RAPT理論で言う、秦氏と出雲族の抗争というのは全くもって出鱈目であり、RAPTが語る日本史も8割くらいは出鱈目であると考えて良いということです。
さすがに、日本史におけるRAPT理論の全部は否定しませんが、事実、私も秦氏と出雲族の抗争として日本史を考えた時に、行き詰まるケースが結構ありました。
前九年合戦、後三年合戦、奥州合戦、北条氏による鎌倉幕府の乗っ取り、南北朝動乱など、秦氏と出雲族の抗争と考えた時に、どうしても理解不能なことが多かったわけです。
ルシファーによって、RAPT理論を登場させることで、やはり混乱を招くのが目的であったと考えざるを得ません。
ユーチューブのRAPTによる日本史に関する読者対談は、やはり削除した方がRAPTのためだと言えるでしょう。
なぜユーチューブがRAPTによる読者対談の音声動画を削除しないのか、理由がはっきりと分かりました。
RAPTのような日本史オンチが、神の力を得て日本史を解明すること自体、無理が有ると言いますか、無謀だと言わざるを得ません。
そもそもが神の力など存在しないわけですから、RAPTに日本史を解明できる力は無いと言っても過言ではないでしょう。
実際に、RAPTの日本史に関する解明も中途半端であり、どうせならば神の力を得て全部を解明してほしいものです。
平清盛のこと、源義経のこと、関ヶ原の戦いのこと、明治維新のこと、太平洋戦争のこと、等のように、一部の日本史の内容を解き明かしただけに留まっています。
日本の歴史はそれだけなんですか?と突っ込みたくもなりますね。(笑)
秦氏対出雲族の構図が成立しているような出来事を取り上げているだけだろう、と今となっては思ってしまいます。
日本史に関するRAPT理論を信じた私は、大恥を掻き続けていたということです。
日本においては、それこそずっと秦氏の支配体制が続いていると言っていいのかもしれません。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康など、RAPT理論により出雲族と思われていた歴史人たちも、実は秦氏の末裔であったと考えた方が筋が通ってくるような気がしてなりません。
足利尊氏は北条を倒すために後醍醐天皇に与しましたが、単純に足利尊氏は源氏、時の執権北条高時は平氏、だから足利は北条を倒そうとした、と通説通り考えた方が分かり易いでしょう。
秦氏の末裔であれば、天皇に味方するのも道理でしょう。
厳密には、鎌倉幕府を倒そうと最初に行動を起こしたのは後醍醐天皇ですが、後醍醐天皇も北条も秦氏と考えた時に、この構図がどうしても理解できませんでした。
足利尊氏を出雲族、後醍醐天皇を秦氏と考えると、矛盾が生じて理解困難となるのですが、同じ秦氏であれば手を組むこともあり裏切ることがあるのも納得です。
加えて、新田義貞に至っては、死ぬまで後醍醐天皇の味方でしたが、新田義貞を出雲族と考えた時に説明が困難でしたが、新田義貞も元々は秦氏だったと考えれば簡単に説明が付きます。
そもそも、天皇家と源氏というのは、RAPT理論では犬猿の仲みたいに語られていますが、実際には比較的良好な関係を築いている天皇と源氏もいるのです。
新田義貞と後醍醐天皇の例もそうですが、承久の乱の首謀者である後鳥羽上皇は鎌倉幕府の三代将軍の源実朝と非常に仲が良かったようで、そればかりでなく、平氏である北条時政とも懇意にしていたわけです。
秦氏と出雲族に分類すると、この状況を合理的に説明できません。
ちなみに、北条時政の失脚は、後鳥羽上皇との関係性にあったのかもしれませんね。
と言いますか、源氏も平氏も天皇家を重んじているとしか思えないわけです。
その理由は、どの時代も朝廷からの官位を物凄く重要視しているからです。
天皇家を軽んじていれば、官位なんてどうでもいいと考える源氏と平氏がいても良さげですが、歴史を振り返る限り、そう考える源氏と平氏はいないと言っても過言ではありません。
足利尊氏も後醍醐天皇のことは裏切りましたが、北朝(平安京)を重要視していたからこそ、京都に幕府を開いたのでしょう。
天皇を軽んじている人間の行動のようには思えませんし、そもそも足利尊氏の「尊」の字は後醍醐天皇の名前から授けられたものであり、生涯を通じて足利尊氏はその「尊」の字を捨てなかったわけで、後醍醐天皇に対するリスペクトが込められていると言ってもいいでしょう。
源頼朝は、必要以上に奥州藤原氏に対して敵意をむき出しにしていますが、それも納得できます。
奥州藤原氏はおそらくは百済系藤原氏であり、新羅系秦氏にとっては宿敵なのでしょう。
源頼朝は平家に対してはそこまで敵意むき出しでは無いのに、奥州藤原氏に対しては滅ぼすまで許さない姿勢を貫きました。
誤解の無いように願いますが、奥州藤原氏に対する敵意と平家に対する敵意を比較しているだけであり、当然ながら源頼朝の平家に対する敵意は十分にあったでしょう。
ただ、源頼朝は平家の人物を自身の支配体制の下で登用しているケースもありますので、本当に平家を滅亡させるつもりならば、生かす選択肢は無いはずです。
一方で奥州藤原氏ですが、三代目当主の藤原秀衡は源頼朝からの理不尽な要求を呑んで、臣下となっても構ない姿勢を取りましたし、四代目当主の藤原泰衡は源頼朝に対して敵意は無い姿勢を取りました。
平家と比べると、随分と聞き分けが良かったのです。
にもかかわらず、源頼朝は奥州藤原氏の滅亡に最後まで拘り、奥州藤原氏を滅ぼして奥州の支配権を奪いました。
これは源義経を匿ったためではなく、やはり奥州藤原氏は生粋の百済系藤原氏の末裔であったため、と考えた方が整合性が取れるでしょう。
実際に、前九年合戦の時から、源氏と奥州藤原氏(当時は奥州安倍氏)は戦争をしていたわけですから。
後三年合戦では源氏と奥州藤原氏が手を組んでいますが、これは清原一族を滅ぼすという利害関係が一致しただけであり、実際に藤原清衡は奥州の支配権を獲得すると、源義家を奥州から追い出しました。
織田信長と徳川家康がなぜ組むことが出来たのか、RAPT理論では織田信長=秦氏、徳川家康=出雲族となっていましたので整合性が取れにくかったのです。
よくよく調べてみますと、織田信長は「藤原信長」とか「平信長」と名乗った節があるようで、自らを平氏と位置付けている側面もあるようです。
ただそれだと、徳川家康は源氏を称していますから、両者が手を組むというのは矛盾に感じるかもしれませんが、徳川家康が源氏を名乗り出したのは、織田信長の死後であったようで、それまでは「藤原」を名乗っていた節があるようです。
ご興味のある方は以下の記事を参照して下さい。 徳川家康の本姓は源氏ではなく、なぜ藤原氏だったのか
そうなれば、織田信長と徳川家康が手を組むのも理屈が通ってきますね。
ちなみに、源氏と平氏はその時の情勢に応じて手を組むことも有り得ます。
平清盛に源頼政が従ったように、北条政権の鎌倉幕府内で足利氏が御家人として従ったように、手を組むという表現は時として御幣を生むかもしれませんが、源氏と平氏はこのように味方同士になることもあると言えそうですが、最終的には、いつの時代も両者は支配権を巡って争っているわけです。
要するに、日本の歴史は常に源氏と平氏が抗争を繰り広げていた、と考えれば、起きた事実にしっかりと整合性が取れるのだろうと思われます。
ちなみに、甲斐源氏は新羅系秦氏の血筋であるという記事の中に、「北条氏による源氏三代の暗殺」と書いてある部分がありましたので、私が考えていた「源頼朝は北条氏に暗殺された」というのは正解のような気がしてなりません。
北条氏による鎌倉幕府の乗っ取りが行われたのは確かな事実であり、その結果から踏まえれば、源頼朝が北条氏に暗殺されたと考える方が自然だと思います。
源氏三代の暗殺を隠すために、源頼朝は落馬による死、源頼家は精神錯乱による死、源実朝は公暁による暗殺、といった具合に、腑に落ちない死に方になっていると言えるでしょう。
そう言えばRAPTは、孝明天皇暗殺を否定していましたが、どうやら孝明天皇暗殺は事実ではないかと考えられます。
それはそうでしょう。
だって、明治天皇すり替えは確かな事実であり、RAPTは明治天皇すり替え説は採用しているのに、孝明天皇暗殺説を否定するのは筋が通らないと考えないわけです。
明治天皇をすり替えたのは薩長です。
むしろ、明治天皇をすり替えるために孝明天皇を暗殺した、と考えた方が自然でしょう。
内部の人間がすり替えるのならばいざ知らず、薩長という部外者が天皇すり替えを実行するのに、孝明天皇が邪魔だということくらい、簡単に理解できるでしょう。
ましてや孝明天皇は、江戸幕府(徳川家)と手を組んだわけで、薩長にとっては敵同然の相手だったわけです。
薩長にとって孝明天皇を暗殺する動機は、十分過ぎるほど有ると言えるわけです。
RAPT理論のおかしな点は他にもありまして、RAPTによれば、平氏も元々は出雲族と言っていましたが、この時点で間違っているというわけです。
また、源義経についても秦氏の傀儡として育てられたのではなく、元々から秦氏の末裔であったというわけです。
RAPTは「秦氏は天皇を重んじる」と言っていましたが、平清盛は明らかに後白河天皇を軽んじているかのような扱いをしていたわけで、これだけ取っても矛盾だと言えるのです。
実際に平清盛は、福原遷都といって朝廷の居場所を平安京から移していますが、天皇の臣下に過ぎない平氏の人間としては行き過ぎた行動だと言えると思いますが、自身のことを白河天皇の子供だと認識していれば納得できる話でもあるのです。
後白河天皇は白河天皇の玄孫だったはずです。
平清盛は、自分の本当の父親が白河天皇だと知っているとしか思えないような彼の行動ぶりだったのです。
実際に、後白河天皇は鹿ケ谷の陰謀といって、平清盛暗殺を計画した位ですから。
余談ですが、平清盛の母親と言われている祇園女御ですが、彼女は日本人ではなく西洋人だった可能性があります。
祇園とは「シオン」から来ていると言われており、「シオン」とはエルサレムのことですから、西洋人であることを隠すために「祇園」という言葉を使った可能性も考えられます。
以上のように、源氏は秦氏の末裔であると考えると、起きた出来事が分かり易くなるという側面があります。
従いまして、その可能性は極めて高く、日本史におけるRAPT理論は出鱈目が目立っていると言う他ありません。
源氏が秦氏であることについて、何か情報をお持ちの方は、是非コメント欄で紹介してほしいと思います。

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