キリスト教こそ本当の悪魔教だ!! その1                                                            ~登場する義人たちは本当に義人と言えるのか~

私は、自分がキリスト教を信じたことが愚かであったとつくづく実感しました。

結論から言わせていただくと、聖書からは学ぶべきことなど一切ない、と言っても過言では無い位だと思うようになりました。

従いまして、聖書の話なんて知らなくても、人間として善良に生きていけるということです。

いやむしろ、聖書を学んだが故に、嫌な人間になってしまうことさえあるでしょう。

ヤフー知恵袋で私の質問に回答してきた奴なんか、その典型です。

私は2022年にキリスト教の信仰者となってから聖書を読むようになり、20回の通読をしてある程度の内容は把握しましたが、逆にRAPT反論記事や聖書反論記事を書く上で大いに役に立ったと言えるでしょう。

キリスト教の信仰をやめてみると、改めて聖書の内容に不可解な点が多いことに気付きました。

私が主張したいことは、私が書いていることが正しいかどうかということよりも、誤解や疑念を与える隙が生じていることが問題だ、ということであり、それを念頭に入れて記事を読んでいただきたいと思います。

私の誤解を払拭させて下さい、と言う話ではなく、そもそも誤解を抱く余地があることに問題提起をしているということです。

私の誤解が誤解でない可能性もあり、誤解を解いている人が間違っている可能性もあるのですから。

聖書とはRAPT曰く「神が書いた書物だ」と言っていますが、もしもそうであれば聖書は完璧とも言える書物であり、誰が読んでも誤解や疑念は一切生じることが無いはずです。

「あなたの頭が悪いから疑念や誤解が生じるのだ」と言うそこのあなた、頭の良し悪しで理解できるかどうかが決まる書物なんて、それこそ人間を差別する書物だと言っても過言で無くなるでしょう。

そもそもRAPT本人でさえ音声配信の中で「先生が『聖書は比喩で書かれてある』と言った時にカチンと来た」「どうして神様は善悪を知る木の実なんか作ったんだ」と語り、信仰が弱かった当時の自分を振り返っていましたが、これ疑念や疑問、誤解を生じている事実を語っていると思いませんか。

そもそもが本当に聖書に書かれてあることが「真理」であれば、誤解や疑念が生じる隙が一切無いのは勿論、誰が見ても誰が聞いても誰が読んでも、全人類が納得し理解できる書物でないとおかしいということです。

人間は神の創造物なわけですよね。

そうであれば、むしろ全人類が理解できるように書くのが筋というものでしょう。

神は人を分け隔てしないはずですよね。

もしも「頭が悪い」と指摘するキリスト信者がいれば、それは人を分け隔てしていることに外ならず、神への否定とも取れる発言です。

このように、一言に対して突っ込みどころ満載となるような書物が「神の書物」と表現していいのでしょうか。

今回は、聖書に登場する人物の中で「こんな人間が義人だと語られていることは片腹痛い」と言える人物を紹介します。

ダビデは、人妻を略奪するという異性の罪を犯しただけに留まらず、あろうことか略奪した人妻の夫を殺すという殺人の罪まで犯した人間なのに義人扱いする違和感。

旧約聖書の内容の一つになりますが、ダビデとは神に見い出され、神から当時における一番の義人だと認められた人であり、イスラエルの王様になり栄華を極めた人物です。

彼は神を信じて、その掟に従順だった人物として描かれています。

いわば神から遣わされた時代の中心人物として活躍したわけです。

その人物が、到底義人とは思えない、善良なる人間とは思えないほどの悪を働いたのです。

本当の悪人でもここまでやるか、と思いたくなる内容です。

それなのに実は、聖書にはダビデ本人がこの悪に対して直接、神から裁かれた場面が一切書かれてありません。

確かにダビデが神から裁かれた場面が描かれている箇所はありますが、「イスラエル民族の人口調査をした」ことが大きな悪として神の裁きを受けている記述はありますが、その裁きに関しても、何の罪もないイスラエルの民たちが疫病で大量に死ぬという、理不尽極まりない神の裁きが成されているのです。

意味不明ではありませんか。

まず、人妻を略奪した上にその夫を殺したことと、イスラエルの人口調査をしたことと、皆さんはどちらが悪だと思いますか。

更に、犯罪を犯したダビデ本人を直接裁くことなく、他人に裁きを及ぼす聖書の神が、善良なる愛ある神だと皆さんは思いますか。

と言いますか、本来であればこんな質問するまでもないでしょう。

そもそも人口調査がどうして裁きを受けるほどの悪なのか、読んでいてもさっぱり分かりませんでした。

様々なキリスト教系のサイトを見たことがありますが、「ダビデの人口調査は神の力を信じずに人間の力に頼ろうとした罪だ」と説いているサイトがありましたが、いやいや、人間の力に頼ったことが殺人よりも重い罪なのか、ということです。

そんなことを言い出せば、世の中の人たちは全員神から裁きを受けなければならず、人類は到底生きて行けなくなるでしょう。

申し訳ないですが、モーセの十戒にも「人を殺してはならない」という一文はあっても「人間の力に頼ってはならない」という一文はありません。

それにもかかわらず、なぜか人妻を奪い夫を殺した報いとして、大きな罰を受けたようには書かれていないのです。

これはどう考えてもおかしいです。

しかも、ダビデのことは旧約聖書内で「サムエル記」「列王記」「歴代誌」と3つに分けて書かれていますが、驚くことになんと「歴代誌」にはダビデの犯した殺人に対する悪が一切書かれてありません。

もはや終わっているとしか言いようがありません。

聖書をよく読まれている方は、「略奪愛(そもそもこの表現が現代においても妥当とは思えませんが。)によって最初に生まれた子供が死んでいるではないか」と私に注文するでしょうが、これこそがまさに理不尽の象徴たる場面です。

生まれた子供には何の罪もないはずなのに、なぜ子供がダビデの罪の犠牲とならなければならないのか、キリスト信者はこのことを当然だと思う「頭いかれポンチ」なわけです。

このことを理不尽だと思っている牧師もいないでしょうし、このことに疑念を持つキリスト信者もいないでしょうから。

少なくとも私には全く理解できませんし、むしろ聖書の神を絶対に許せません。

本人に対する悪の報いとは、ダビデが来る日も来る日も病気に苦しむとか、ダビデが来る日も来る日も殺されかけるとか、ダビデが来る日も来る日も大けがをし傷が癒えずその痛みに耐えられない日々を過ごすとか、そういう直接的な裁きが本人に起きないと、殺された夫も犠牲となった子供も犠牲となったイスラエルの民たちも一切報われないでしょう。

勿論、子供を失うのは親にとって大きな痛手となるでしょうが、時間が経てばある程度は解決する問題です。

当然ながら、現代のようにせいぜい一人か二人、多くても三人程度しか子供を産めない世の中においては、子供が産まれてすぐに失うことは、たとえ時間が経っても一生癒えることの無い心の痛みとなるでしょうが、ダビデには何十人と子供がいたわけです。

そもそもダビデに限らず、当時の男の義人たちには何人もの側室(言い換えれば愛人)がいたことも、姦淫が罪と言う聖書の前提からしても理解不能ですが。

実際にその後、略奪した女性もソロモンを産んで、数多いダビデの子供たちの中で彼がダビデの後継ぎとなっているのですから、むしろ人妻を略奪して殺人まで犯した人間に祝福が授けられているという、もはや開いた口が塞がらない到底信じられないような話になっているのです。

現代でも、人口調査をして犯罪者扱いされることはまずありませんが、人妻を奪っただけでも非常識で良識の欠片も無い悪人として周囲に認識されるというのに、それだけでは飽き足らず、その夫を殺すまでしてしまった殺人者を、善良でまともな人だと思う人がいるとでも思いますか。

聖書ではこのような人間を善良で一番の義人だと書いていて、そのような人間を神が選んだ偉大な人物として後世に語り継いでいるのです。

どう考えてもKさんの言う通り、聖書の神は悪なる神としか言いようが無いでしょう。

だって、殺人者が祝福を受ける話ですよ。

ドラマや小説で書くならいざ知らず、これではまるで、神を信じて偉大となった人間は何をやっても許される、と聖書は言っている様なもので、またそのように考える人間が誕生しても、むしろ当然と言えるわけで、申し訳ないですが、RAPTもその一人と言えるでしょう。

何度も書いていますが、創価学会の「創価のための犯罪は犯罪ではない」という考え方と全く同じです。(笑)

まあ、百歩譲って人妻を略奪したのは理解できなくもありません。

現代でも、略奪愛や不倫などは、時として肯定されることさえありますから、止むを得ない部分はあるかと思います。

私が言う「肯定される」の意味は、ドラマなどで略奪愛ものや不倫ものを扱うことを指しています。

しかしながら、その夫まで殺す様な人間を、現代においても果たして称賛されるほどの人物として人々が認めてくれるのでしょうか。

と言いますか、むしろ略奪された側が殺意を抱くことならば理解も出来ますが、略奪した側が殺意を抱くなんて尋常ではありません。

人殺しの犯罪者が義人だとは、もうどうなってんだその世界は。

ソロモン(ダビデの息子)は、晩年に神に背いた悪人なはずなのに、彼の残した戒めが聖書で扱われていることに対する違和感

確かにソロモンは、イスラエルの王になってからしばらくは神に対して従順でした。

しかしながら、聖書では老境に入ってから異国の神々(=悪魔)を拝むようになって神に反逆した、と紹介されています。

キリスト教の世界では、神への反逆行為は、それこそ殺人罪と同等の罪なはずです。

それなのに、従順であった期間を殊更持ち上げてソロモンの偉業として聖書には書かれてありますが、皆さんはこのことに違和感を覚えませんか。

例えば、それまで善良に生きていた誰もが尊敬するような人間が、たった一度の殺人を犯したとしたら、その人間が過去に説いた教えを学びたいと思う人が果たしているのでしょうか。

むしろ、その人の語って来た言葉さえ、聞きたくなくなるはずです。

その殺人者に対して「どの口が言ってんだ!!」と皆が口を揃えて言うでしょう。

殺人者の過去の教えがどんなに善良だとしても、殺人者というだけで善良が消えていくわけです。

たった一度の大きな過ち、つまりは犯罪行為が、その人のそれまでの人生を全て台無しにしてしまうのではないでしょうか。

その人が殺人の罪の償いをして、再び善良な生き方をすれば、もしかすると再びその人の教えが生きて来る可能性はあるでしょうが、ソロモンは神に反逆してから死ぬまで心を変えること無く反逆を貫きました。

ソロモンは、いわゆる人殺しが人殺しの汚名を着たまま死んだと同然であり、その教えを学ぶ価値は一体どこにあるというのでしょうか。

旧約聖書には「箴言」「詩編」「コへレトの言葉」などにその教訓が残されていますが、犯罪者から学んでいるに等しいと言えるでしょう。

ましてや、ソロモンが神に反逆したことを「歴代誌」は全く取り上げていません。

ソロモンの反逆については「列王記」に取り上げられてはいるものの、内容が極めて薄いと言わざるを得ません。

重大事なのかどうか分かりにくい、ということです。

私に言わせれば、神への反逆は何にも増して重大な悪事のはずなのに、それを聖書で取り上げないというのは何たる暴挙であるか、と言っておきましょう。

様々な教訓を紹介する前に、神への反逆こそ詳しく伝えるべきはずなのに、聖書はそれを平気で素通りする始末なのです。

有り得ないでしょう。

このように、ダビデとソロモンを取っても、義人どころか悪人とさえ言えるはずなのに、聖書はそれを大々的に義人として賞賛しているのです。

こんなことをしているのが善良なる神だというのですが、その神が本当に善良なのかどうか疑わない方がどうかしているでしょう。

聖書は本当に学ぶに値する書物なのでしょうか。

私からすれば、学校の教科書を勉強していた方がはるかに良いと感じます。

しかも、学校の道徳の授業だけで十分でしょう。

申し訳ないですが、聖書や聖書の神よりも、普通の人間の方がよっぽど良い教訓を教えていると思いますが。

RAPT信者やキリスト信者の皆さん、これでもダビデやソロモンが義人であると合理的に断言できる根拠を述べることが出来ますか?

RAPTも言っていたように記憶しますが、一度キリストを信じたにもかかわらず、その信仰を捨てて再度世の中に戻るようなことをしたならば、それこそ神の裁きを強烈に受けることになるのがキリスト教の教えではなかったですか?

つまり、神に背いたならば、それまでの信仰は全てが無駄に終わるというだけでなく、その後の人生も崩壊する、というような話なのではないでしょうか。

ソロモンを偉大な義人と評することは、そのことを真っ向から否定するようなものです。

そもそも、キリスト教から離れたらやばいよ、という教えは脅迫以外の何ものでもありません。

脅すような真似をしている宗教が人々を救う唯一の宗教だなんて、世間のいい笑い者にされますよ。(笑)

神に反逆したような人間を偉大な義人と評することは何事か!!と普通は叱られますけどねえ。

その考えで行けば、例えばRAPTが猛烈に批判した麻生太郎でさえ義人ということになりはしませんか。

だって、麻生太郎もカトリックかなんかで、一応はクリスチャンなわけでしょうから。

是非とも、どなたか私の指摘に対する誰もが納得できる反論をコメントいただけると有難いです。

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