このタイトルをご覧になり「こいつは何を言っているんだ!頭おかしいぞ!」と思われた方も多いことと思いますが、実は、北条時宗(元寇の時の鎌倉幕府の執権)を説明するウィキペディアにも書かれてある内容の一つなのです。
この中からご紹介します。
~転載ここから~ 中世から近世においては、否定的な評価はあまり下されることがなかったが、橘守部は、蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾している。しかし、守部のこの評価は荒唐無稽に過ぎるとしてあまり顧みられることはない。守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感が沈潜していたと指摘される[8]。 ~転載ここまで~
橘守部とは、江戸時代の学者のようで、本居宣長と対立していたようです。
「朝廷潰し」とは、この当時の天皇家は出雲族であったと考えられますので、「出雲族潰し」と解釈できなくもありません。
と言いますか、出雲族潰しでしょう。
私は元寇の構図が、フビライ・ハン=秦氏であり、鎌倉幕府=出雲族という構図の下に行われた戦争だと考えています。
実際に、RAPT理論によってもそのように言われていましたし、この認識は決して間違いではないと考えられます。
そもそも鎌倉幕府とは源頼朝が作った出雲族政権ですから、表向きは出雲族だったわけです。
そして、アンサイクロペディアにある元寇の説明として、面白い内容が書かれてあります。
~転載ここから~ 13世紀のアジアは、チンギス・ハーンが発足したモンゴル帝国が破竹の勢いで勢力を拡張させ、西はヨーロッパに至るまであらゆる国々が制圧されていった。このチンギス・ハーンは実は源義経であり、蝦夷から朝鮮半島、更にモンゴルに逃れ、そこで遊牧民達を糾合し、卓越した武勇と統率力を発揮してモンゴル帝国を立ち上げ、隆盛させたのである。
義経は、平家討伐に抜群の功績を挙げたにも拘わらず、兄源頼朝に疎まれ征伐された過去を持っていた。それゆえ、頼朝と、彼が支配する日本への憎悪は深く、日本への「復讐」を常に検討していた。義経ことチンギス・ハーンは残念ながら死ぬまで復讐を果たすことは叶わなかったが、末期の臨床において、息子達に「何代かかってもいいから、日本に兵を派遣して蹂躙し、俺を追い出した鎌倉の兄貴と日本人共に復讐しろ」と口伝を遺し、この口伝は代々、息子達に伝えられた。
だが息子達には、親父の遺言は私怨にしか聞こえず、日本のような矮小な島国に兵力を注ぐことに何のメリットも見出せないと判断していた。 親父の死の床では殊勝に遺言を聞いていた息子達だが、親父が死ぬとそんな遺言聞いてませんでしたとばかりに進路を西へと変更したのである。 ところが、チンギスの死後50年以上経過して、彼の遺言を遵守する皇帝が現れた。 文永・弘安の役を敢行した、5代皇帝、フビライ・ハーンである。 ~転載ここまで~
アンサイクロペディアは、決して真実が書かれてあるサイトではありませんが、「チンギスハン=源義経」だとはっきりと書いていますし、ここに書かれてあることは信憑性が高いものと考えて差し支えないと思われます。
この内容を認めると、どうして元寇が起きたのか、その理由が頷けるからです。
源義経が鎌倉幕府に対して相当な遺恨があったことは疑いようの無い事実であり、鎌倉幕府=源頼朝=出雲族でありますから、源義経はいわば出雲族に強烈な恨みを抱いていた、と言えそうです。
源義経の遺言は、いわゆる、「日本にいる出雲族を滅ぼせ!」ということだったのでしょう。
しかしながら、調べて行けば行くほど、鎌倉幕府で実権を握っていた北条氏が、元々は出雲族でありながら秦氏に与し続けたのではないかと思われることばかりが出て来るのです。
例えば、北条時宗の父親は、鎌倉幕府5代執権の北条時頼といい、この人物も秦氏側に与した人物だったのではないかと思われる要素があります。
北条時頼は最明寺で出家しているようで、墓地は明月院だというのです。
明月院も、元々は最明寺と言われていたようで、要するに、明月院と最明寺は同じ悪魔が祀ってあるということです。
明月院の本尊は聖観音(しょうかんのん)と言って梵名があるようです。
ちなみに「本尊」とは偶像のことですが、そこに祀られている悪魔のことと同義でしょう。
梵名とは「サンスクリット」と言い、古代インド・アーリア語に属する言語だとか。
アーリア語=アーリア人=秦氏です。
RAPT×読者対談〈第108弾〉世界はアーリア人(秦氏)とチュルク族(月派・出雲)の抗争の上に成り立っている。
従いまして、北条時頼の時代には鎌倉幕府は秦氏側であったと言えそうです。
そして、6代目と7代目を経て、北条時頼の嫡男である北条時宗が執権になりました。
そして北条時宗も秦氏側であったのではないかと思われる根拠をいくつかご紹介します。
北条時宗は、元寇の際に日蓮を佐渡へ島流しにしています。
日蓮は出雲族ではないかと言われていますから、北条時宗が秦氏として日蓮を追い払った、とも考えられるわけです。
更に、北条時宗のウィキペディアには興味深い内容が書かれてあります。
~転載ここから~ 幕末、諸外国との折衝で紛糾し、尊王攘夷の気風が高まるようになると、俄然、時宗に対する礼賛は傾向を強めるようになる。明治時代には元寇受難者への追贈で時宗にも従一位が追贈され、湯地丈雄によって元寇記念碑が設立された。太平洋戦争の頃になり、皇国史観が鼓吹されるようになると、時宗に関する論考は一層盛んになり、評伝などが数多く書かれた。太平洋戦争で日本本土が攻撃されると、強大な外敵からの侵略に断固として立ち向かった時宗の姿勢を肯定的にとらえ、礼賛する風潮が生まれた[9]。 ~転載ここまで~
尊王攘夷を掲げたのは反江戸幕府勢力ですから秦氏ということになります。
尊王攘夷派から北条時宗が礼賛されるということは、秦氏から礼賛されたということになります。
加えて、太平洋戦争はロスチャイルド(秦氏)とロックフェラー(出雲族)の争いであり、表面上、日本がアメリカに攻撃されたわけで、即ち、この当時の日本は秦氏が支配していました(厳密には秦氏+李家(旧皇族))ので、「日本国土が攻撃される」ということは「秦氏が攻撃される」ということと同義であり、つまるところ、秦氏が北条時宗を礼賛しているということになります。
ただ、北条時宗は禅宗に帰依していたそうで、禅宗は出雲族が拝んでいる宗教のようですから、日蓮との兼ね合いも含めて、この辺りの矛盾を深く掘り下げる必要があるでしょう。
総合的に見まして、北条時宗が秦氏に与していたのではないかと考えられる根拠が、様々に出てくるわけです。
また、北条氏は元々は出雲族でしたから、秦氏に与した北条一族と内紛が生じていたことでしょう。
実際に、元寇の前に二月騒動という北条氏の内紛が生じています。
これが、北条氏内部の出雲族と秦氏の抗争だった可能性があるのです。
と言いますか、なぜか北条氏は承久の乱以降、一族での内紛が度々生じているのです。
宮騒動や霜月騒動も良い例です。
興味のある方は見て下さい。
宮騒動(5代執権北条時頼の頃)
霜月騒動(9代執権北条貞時の頃)
出雲族は何も北条氏内部にだけ存在しているわけでは無く、鎌倉幕府の内部にも、日本全国にも存在しているわけです。
秦氏に与した北条氏が出雲族を警戒する理由は大いにあったと考えられます。
実際に、元寇から約50年後に、鎌倉幕府は出雲族である足利尊氏と新田義貞によって潰されました。
元寇の前に、元からの使節が日本に派遣されていますが、この時に北条時宗が使節を通してフビライハンに日本侵攻(出雲族潰し)を依頼した可能性もあるわけです。
フビライハンにとっても、チンギスハンの遺命を果たすのに好都合だったでしょう。
では、ここから元寇のことを見ていきますが、二度に渡る元寇は、いずれも九州から始まっています。
元(モンゴル帝国)と鎌倉幕府の戦争のはずなのに、鎌倉からは遠い場所から開戦となっているのです。
確かに、朝鮮半島から攻め行った方が日本に上陸し易いのはその通りでしょうが、海からの進撃ですから、攻めようと思えば山陰の方からでも北陸の方からでも北海道からでも進撃できたはずです。
もっと言いますと、海上をぐるりと巡り、関東の沿岸から進撃することも決して不可能では無かったはずです。
一度目は九州からでも、二度目はもう少し考えないのかな、と思うほどです。
戦争の始め方も茶番を疑う一つの要素ではあります。
なぜ九州から、しかも対馬の方から進撃を開始しているのか、やはり「秦氏が最も上陸し易い地域だったから」ということになるでしょう。
最初に元の軍勢を迎えたのが対馬の宗氏です。
宗氏の出は、桓武平氏清盛流のようで、元々は惟宗氏(これむねし)だと、ウィキペディアに書かれてあり、惟宗氏を調べると、はっきりと「秦氏の子孫」と書かれてありました。
ということは、フビライハン率いる元が秦氏だとすると、対馬侵攻は秦氏VS秦氏となり、辻褄が合いません。
フビライ率いる元が出雲族だったか、もしくは、秦氏による茶番劇だったか、ということになります。
ここで、元軍が掲げている旗を見ますと、日本の国旗と色の配置が逆です。

このことについては、RAPTさんの以下の記事もご参照ください。
「源義経」がロスチャイルドの傀儡となり、その孫のフビライ・ハンが元寇を起こしました。
ここから推理するに、やはりフビライ率いる元は秦氏だと考えた方が妥当だと感じます。
そうしますと、茶番劇であった可能性が浮上してくるわけです。
実を言いますと、フビライハンのウィキペディアを見てみますと、元寇のことに全くと言っていいほど触れられていません。
現在では「クビライ」が一般的となっているようです。
一部を抜粋します。
~転載ここから~ 中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧した後、13世紀末には事実上滅亡させ、傀儡政権として王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させた王太子王賰の王統を立て朝鮮半島支配を確立した。また至元24年(1287年)にはビルマのパガン王朝を事実上滅亡させ(→モンゴルのビルマ侵攻)、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。しかし、日本への2度の侵攻(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国(→モンゴルのベトナム侵攻)、ジャワ島のマジャパヒト王国(→モンゴルのジャワ侵攻)などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。 ~転載ここまで~
このように、元寇に関する記述は、ほんの少し触れているだけで、ほとんどスルー状態と言っていいでしょう。
ということは、元寇は、たいした戦争ではなかったのではないかと勘繰りたくもなります。
日本国内の出雲族に脅しをかけた秦氏側の茶番劇だったとも考えられなくもありません。
実際に、元軍による日本侵略が揺るぎの無い事実であるならば、江戸時代の学者(勿論イルミナティの一員でしょう。)が「自作自演」とか「北条とフビライが通じていた」などという発想が浮かぶのか、と思うわけです。
しかも、ウィキペディアの元寇の説明の中にある表をよくよく見てみますと、元軍の戦力や損害は、比較的具体的に書かれてあるのに対して、日本軍の戦力は不明と書かれてあり、損害も微々たる数しか書かれていません。
「それは日本が勝利したからだ。」と言われる人もいるでしょうが、むしろ逆で、勝ったからこそもっと具体的に書きたくなるはずではないでしょうか。
敵である元軍に対して具体的に書くことが出来ることこそ、不自然だとは思いませんか。
日本軍はけっこうな損害を被ったかのように記載されていますから、もっと戦力や損害が具体的に書かれていてもいいようなものです。
つまり、日本軍のことは具体的に書くことが出来なかった、と考えた方が自然でしょう。
では、なぜ書くことが出来なかったのか「それは茶番劇だったから適当だった」と考えるとどうでしょう。
実際に、日本の秦氏側は大した戦力を用意しなかった可能性があるのです。
それこそ、九州にいる秦氏や出雲族だけが出兵を余儀なくされ、鎌倉幕府や六波羅探題は、戦争の用意をしていただけ、という可能性すら考えられるわけです。
本当に大きな戦争であったならば、鎌倉幕府から九州に具体的な兵力数が派遣されないとおかしいでしょう。
文永の役(最初の元寇)に関するウィキペディアの記述をご紹介します。
~転載ここから~ 大将の少弐景資を始め、大矢野種保兄弟、竹崎季長、白石通泰らが散々に防戦に努めたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となったという[183]。日本軍は太宰府手前の水城に篭って防戦しようと逃げ支度を始め、逃亡するものが続出する中、敗走する日本軍を追う左副都元帥・劉復亨と思われる人物を見止めた少弐景資が弓の名手である馬廻に命を下して劉復亨を射倒すなどして奮戦したものの[184][185]、結局、日本軍は博多・筥崎を放棄して内陸奥深くの水城へと敗走したとしている[183]。ところが10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたという[186]。
元軍の撤退理由については、日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた[187]。恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から不可思議な火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した、としている[187]。 ~転載ここまで~
はっきり言いますが、まるでおとぎ話の様な内容だとは思いませんか。
「八幡神」などと馬鹿げた話が書かれてあるわけです。
記述の途中までは、元軍の破竹の勢いの様な記述が書かれてあるにもかかわらず、「突然撤退した」とか有り得ないですよ。(笑)
これを読んで「へえ、凄いなあ。」と思う読者がいるのでしょうか。(まあ、いるのでしょう。)
そして弘安の役(二度目の元寇)は暴風雨により日本が勝った、となっています。
このように、改めて見てみますと、「本当なのか」と思わせる記述が目立つことに気付きます。
私の主観だと言われればそれまでですが。
元軍が撤退した理由は、周辺国の反乱や自国での反乱の勃発、などのように考えた方が自然な気がしますが。
要するに、北条時宗による出雲族潰しは失敗した、という私の推理になります。
フビライハンも、世界中の出雲族を相手にしなければなりませんでしたから、日本だけというわけにはいかなかったでしょう。
勿論、私の調査はまだまだ甘いものだと考えています。
決して元寇の真実を暴いたわけではありませんが、一つの仮説として興味を持っていただければと思います。
真相かどうかは別として、このように、他人が考えもしない発想が出来ることこそ、ある意味ではキリスト教やRAPT理論のお陰だと感じています。
私の日本史の推理はまだまだ続きます。
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