今回は、神様が繋げて下さったと思っていた実の母との再会が、本当はサタンによる誘導だったことが確信できる出来事を書かせていただきたいと思います。
結論から言わせていただくと、神様が実の母と私の関係を裂いて下さった、という話になります。
タイトルにも書きましたように、佛所護念会教団と母とにどんな繋がりがあるかと言いますと、母がその教団の熱心な信者なのです。
母とのことで起きた出来事は後述しますが、まずは佛所護念会教団がどうして悪魔教と断定できるのか、簡単にご説明します。
ウィキペディアには「日蓮系、法華系の新宗教」と紹介されてありました。
「法華宗は日蓮宗の別称」ともウィキペディアに書かれてありますので、日蓮宗と法華宗は同じだということになります。
そして、日蓮は紛れもなく悪魔崇拝者であり、日蓮宗を基本としているのであれば、RAPT理論を知っている我々からすると、それこそ「私たちは悪魔を拝んでいます。」と言って宣伝しているに等しいわけです。
RAPTさんの以下のブログ記事を是非ご覧ください。 空海も最澄も日蓮聖人も出口王仁三郎も深見東州も池田大作も同じ悪魔「サナト・クマーラ」を崇める妙見信仰者でした。 池田大作と上行菩薩と日蓮聖人と法華経とサナト・クマーラと鞍馬山の関係。創価学会が悪魔教であるという歴然たる証拠。
このように少し調べただけで根拠や素性が分かるわけで、いちいち事細かく説明する必要もありません。
こんな宗教の信仰者であれば、実の母が悪魔(サタン)に召喚されていても何ら不思議ではなく、むしろ当然の結果です。
この教団のホームページを見ましたが、やはりキリスト教のように教典となる具体的な存在がありません。
正直なところ、しっかりとした教典が無い時点で怪しさ満点なわけです。
しかも「法華経の教えを実践」とも書かれてありますから、創価学会と見間違いかねません。(笑)
法華経が教典だ!と反論したあなた、アウトです。(笑)
キリスト教には聖書という具体的で確実な教典があるのですが、この教団には会社などにもよくある社訓の様なことを書いているに過ぎず、それが以下になります。
はっきり言いまして爆笑してしまうレベルです。
この程度の教理で人格者が生まれるわけがありませんし、人格を磨くことすら到底不可能です。(笑)
三つ目が聖書の教えに近いものですが、感謝の心も誰に向けるのか、もっと明確にすべきですね。
まあ「本部の言うことを聞け、本部を拝め、本部に感謝せよ」ということなのでしょう。
「一心に悟りの道に精進」とありますが、キリスト教の様な聖書やRAPTさんの御言葉があってこそ、人は真の悟りを得られるのであって、どこで悟りを得るのかそれが具体的に書かれてない時点で、薄っぺらな教理だと言わざるを得ません。
会員間における金銭トラブルに対する戒めなど、どっかの悪徳政治家みたいで、こんなことをいちいち教理として掲げなければならない時点で低レベルと言わざるを得ません。
更に、家庭の平和を挨拶だけで築くことが出来るならば、世の中から身内争いは一切無くなりますね。
挨拶にしても、身内間でなくても普通に人として必要なことであり、いちいち教理にしなくてはいけないのか、と言いたくなります。
また、商売繁盛や健康を願って何が悪いのかと思いますし、そもそもキリスト教の信仰さえ持てば経済力も与えられ病気も治ります。
神様も「病気は治る」と明言されています。
RAPT有料記事166(2017年4月24日)あなたの病は必ず治るから、心配しないで祈りつづけなさい。
従いまして最後の一文は、キリスト教への反逆とも取れる一文なのです。
もっとも、霊のことをしっかりと教えていない限りは、インチキ宗教と言わざるを得ません。
そして今回、母と絶縁のきっかけとなったのが真ん中にある一文の内容でした。
「悪口を慎みなさい」と書いてありますが、母には全くこの教えが浸透していませんでした。
何があったか説明したいと思います。
このブログでも過去に紹介してますが、母と再会を果たした後、よくよく振り返ってみますと、あまり良い出来事は起きていませんでした。
母の旦那さんが寿命を前にして亡くなり(享年71歳か72歳)、飼っていた犬も亡くなり、母にとっては孤独な状態になってしまったわけです。
ここでは書きませんが、母が体験した過去のことも、挙げれば切りが無いほど、宗教を信じているのに不幸なことがあまりにも多いという私の受けた印象でした。
実を言いますと私は、母と再会を果たしてからというもの、母と接する時間がかなり億劫に感じていたのですが、神様からのお導きだと信じていた私は、気のせいだと思うようにしていたのです。
電話で話をすることさえ億劫に感じていた程です。
普段の私は人と会話する時は次から次へと話題が浮かんでくるのに、母と会話をすると、何故か思考が停止するような感覚に陥り、話題があまり浮かんでこないのです。
加えて私は実のところ、母との思い出は全くと言っていい程ありません。
私が小学校1年生か2年生の時に両親が離婚して父親の方に引き取られましたので、母との記憶があまり残っていなくて、実のところ、再会を果たした後も実の母に会っているという感覚ではなく、昔の知り合いに会っているかのような感覚で、他人にしか見えませんでした。
だから、帰省する時はいつも気分が乗らない状態だったわけです。
そして今回のゴールデンウィークも宮崎に帰省したのですが、その前から母に対して嫌な感情を抱いてしまう出来事がありました。
帰省する1週間前に「2日(金)に宮崎に戻って、5日(月)に福岡に戻る予定。」と電話で伝えました。
すると、1日(木)に母から13時ごろ電話があり「今どのあたり?」と言ってきたのです。
私は「はあ⁈」と思い、「戻るのは明日だよ。」と言いましたが、私はその時に帰省するのが少々嫌になってしまったのです。
実を言いますと母との会話は嚙み合わないことが多く、会話することさえ私にとっては疲労困憊となっていたのです。
この場では具体例は挙げませんが、先ほどのように『痴呆が始まったのか』と思わせるような会話が目立っていたのです。
いつものようにホテルの予約もしてくれていたのですが、これまた伝えた通りではなく、日程がズレズレだったのです。
正直、嫌になりましたよ。(笑)
人の話を全く聞いていないか、痴呆が入ったかのどちらかでしょう。
怒りさえ込み上げてきましたよ。
憂鬱な中、4日(日)を迎えたのですが、本当は母と母の姉(私にとっての伯母)との3人で都井岬に行く予定でしたが、伯母が体調が優れないということで母と2人で行くことになりました。
お昼ご飯を食べて、時間が有り余っていたので宮崎市内へと車を走らせました。
その道中で事件が起きます。
私は伯母の体調を心配して母に尋ねたのです。
すると、母は「体調不良じゃなくて、兄さん(伯母の旦那さん)が嫌味を言って行かせないようにしたとよ。」と言って伯母の旦那さんの悪口を言い出したのです。
私は「いやいや、本当に体調不良かもしれないじゃん。」と言うと母は「うんにゃあ。兄さんはそういう人なのよ。以前も同じことが何度もあったから今回も体調不良は嘘よ。」と言うのです。
私は「これまではそうだとしても今回は本当に体調不良かもしれないじゃん。」と言うと母は「私が一番姉ちゃんのことは分かっとる。電話の声が体調不良の声じゃなかった。○○くん(私)には分からんよ。」と言って、あたかも見て来たかのように断定的に話を進め、尚且つ、私の言うことを全否定するわけです。
自分が正しいと言わんばかりの勢いで、ほとほと嫌になりましたよ。
今まではそうでも今回は違うかもしれない、という考えに至らないわけです。
それでも私は伯母のことが気にかかり話を繰り返すと、今度は伯母の旦那さんの悪口だけでなく、伯母の悪口、伯母夫婦の息子さんの嫁さんの悪口まで言い出す始末でした。
伯母の体調不良の話から、何故か大きく話が飛躍して反れまくったわけです。
その様子はまさにサタンそのものであり、まくし立てるように話していました。
30分くらい身内の話をしたでしょうか、私は母の話を聞きながらイライラしてきて、仕舞いには怒りが込み上げて我慢できなくなったのです。
聞くに堪えられなくなった私は母に「今のお母さんは性格が悪い人間になっているよ。」と指摘すると母は「私は事実を言っただけ。」と返してきました。
実を言いますと母の話しぶりは「~なはず。」という言葉を多く繰り返していたわけです。
「はず」という言葉は憶測を表す言葉です。
憶測でものを言うことが多かったにも関わらず、全てを事実と断定する時点でサタンを強烈に感じたわけです。
しかも母の表情や目つきを見ると、文章で表現するのは難しいですが、目が据わっていて見るに堪えない顔つきになっていたのです。
母は「もうこれ以上この話はやめやめ。」といってヒステリック状態になり、私も「なんでそんな言い方しかできんのや!」と怒り心頭で返答しました。
すると母は「もう私は車を降りる」と言ったので私も「ああ降りろ降りろ」と言い、母も「もうこれ切りやね。」と言って車から降り、そして母から数日前にもらった4万円のお小遣いを「ちょっと待て!これもいらん!!」と言って返しました。
母が車から降りた場所は宮崎市の郊外で、自宅に帰るには相当な距離でしたし、公共交通機関も不便な辺鄙な場所でしたから、母も相当怒り心頭だったのでしょう。
私と一緒にいることも母には堪えられなかったわけで、あたかもサタンが聖霊たちと一緒にいるのが堪えられないかのように映りました。
母は私に向かって「これ切り」と発言したわけで、正直なところ、言ってはいけない言葉を発しました。
完全に母の中にサタンが入っていました。
サタンが関係すると、とことんまでトラブルが大きくなり、絶縁にまで発展するということです。
私はこれにより、実の母との繋がりは神様が下さったものではなく、サタンによってもたらされたものだと確信しました。
もしも伯母が一緒だったら今回の出来事は起きていませんから、伯母が体調不良だったにせよ嘘を付いていたにせよ、やはり神様の御計らいだと思うしかありません。
実を言いますと、母との再会後、帰省した時というのは何故か霊的に苦しい状態に陥っていました。
明け方の祈りの時も起きるのが相当辛く、日中も母と一緒にいても神様を感じることが少なく、結構しんどかったのです。
いやむしろ、今にして思うと、サタンを感じることの方が多かったように感じます。
それもそのはず、佛所護念会教団の信者であれば、母の傍には常にサタンが憑りついていたことでしょうから、母と一緒にいて恵みが失われるような感覚があったのも道理なわけです。
しかも、今回の母との口論についても、そこまでトラブル化する程のことでもないでしょうが、修復不可能な状態にまで導かれたのは、神様の御計らいであったとしか思えません。
正直なところ、私が伯母の体調不良を心配した時に、母が「それなら帰りにでも寄って様子を見ようか。」と言ってくれることを期待していたのです。
と言いますか、その一言だけで良かったのに話が変な方向に行ってしまい、母から逆ギレの様な反応を示されたので、私も『これはもはや終わった』と思ったわけです。
もう一晩宿泊する予定でしたが、私はホテルに戻って宿泊をキャンセルして、逃げるように宮崎(日南)を後にして福岡へ戻りましたが、不思議と体力は有り余っていました。(笑)
その日は合計で約600~700キロを運転しました。
教団の教えの中に「悪口を慎むように」と書いてありますが、キリスト教においても他人の悪口は罪だと書かれてあります。
自分が信仰している教団の教えさえ守れていない母に、いくら徳を説いても無駄だと感じました。
近い将来、母は私の悪口を言い出すでしょうし(もう既に言っているかもしれません。(笑))、母の周囲の人達も真に受けて私を親不孝者と思うことでしょう。
しかしながら私はそれでいいと思っています。
悪人は悪人同士で集まれば良く、悪人達から悪人認定されようがどうということはありません。
私にとっては神様から悪人認定される方が恐ろしいからです。
聖書にもこうあります。 友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。 新約聖書 ルカによる福音書12章4~5節 新共同訳
母も人前では善人を装う偽善者であり、内側は汚れ切っているとしか言いようがありません。
実際に、母の周囲の人達で母を悪く言う人達はいません。
残念ですが、周囲の人達は騙せても私は騙せませんし、私と関われば必ず本性が現れるように導かれます。
聖書にもこうあります。 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば外側もきれいになる。 新約聖書 マタイによる福音書23章25~26節 新共同訳
今回は、実の母とも絶縁となったお話になりましたが、私自身は全く悲観はありませんし、むしろホッとしたというのが正直なところです。
まあ、この記事を読まれた方の多く(特にクリスチャンでない人達)は、複雑な心境になったのではないかと思いますが。
2拍3日の帰省でしたが非常に長く感じましたし、福岡へ戻って来て物凄い安心感がありましたし、更には随分と久しぶりに戻って来たかのような感覚でした。
もしかすると宮崎の中でも日南の霊的状況は相当に悪いのかもしれません。
だから日南にいる全ての身内と絶縁となったのではないか、と感じています。
でも私は全く落胆しませんし、いつか必ず神様が祝福して下さると信じていますので落胆をすることも決してありません。
聖書の一文を紹介して締めさせていただきます。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 新約聖書 マルコによる福音書10章29~30節 新共同訳
コメント