記事の更新が大幅に遅れていますが、決して神から裁かれているわけではありません。(笑)
我社は従業員が遂に私を含めて2人となりましたので、現場で従事する機会が増え、しかも今年の夏も猛暑が激しく、私もさすがに夏バテ気味になっています。
また、趣味娯楽にも時間を費やしていまして、収入も信仰を持っていた当時よりも増え、給料もわずかしかもらっていませんが、立派に生活が出来ています。
正直なところ、記事を書くことよりも趣味娯楽を楽しむ方に専念しているというわけです。
信仰を捨てると裁きが加速し、祝福どころか地獄が待ち受けているはずですよね、RAPTさん。
現状の私のことを、RAPTはどう合理的に説明してくれるのでしょうか。
今回のテーマは、現状の私のことについても合理的に説明が出来る、というものになります。
さて、本題に入ります。
「物理の法則に反することは起きない」と常々RAPTは言っていますが、聖書の内容とは実に、物理の法則に反することばかりが書かれてあります。
特に新約聖書に至っては、物理の法則に反するオンパレードのようなものであり、死人が生き返るシーンがあったり、病気が一瞬のうちに完治するシーンがあったり、聖霊(このようなものは存在しません)により弟子たちが異国語をスラスラ語り出したり、聖霊により妊娠したり、イエスが死んだ後、あたかも肉体を持って弟子たちに現れたかのようなシーンがあったりと、まるでファンタジーのような世界が描かれているのです。
まあ、旧約聖書にしても、ファンタジーのような世界を描いている場面が多々見受けられます。
イエスキリストは物凄い力の持ち主であり、現代風で言えば超能力者でしょう。
果たして、イエスが起こしたようなことが本当に起きたのでしょうか。
聖書には、イエスが起こした奇跡だけでなく、多くの義人たちが起こした奇跡の数々が記載されていますが、果たしてそのうちの一つでも現代人に成せる人がいるのでしょうか。
それこそ、神の人と自称するRAPTに、聖書に書かれてあるような奇跡を一つでも起こしたことがあるのでしょうか。
はっきり言いまして、RAPTはただの人間であり、聖書に書かれてあるような奇跡は未来永劫、絶対に出来ません。
実際に、RAPT理論+αで紹介されているRAPTに関する証は、全然大したことがありません。
だから、RAPTの傍にいる信仰者たちは、RAPTについて何も凄くないことを凄いと言って、彼のことを大きく見せる必要があるのです。
聖書に書かれてある奇跡なんて、当然ながら私自身も経験したことが無い話ですし、そもそもテレビなどで活躍する有名人たちでさえ、イエスキリストのような奇跡的な出来事を起こせるような人間は、誰一人として見たことがありません。
「それはキリストのような人間が現代にはいないからだ」と多くのキリスト信者たちは言うでしょうが、何度も言いますが、何もキリストでなくとも数々の奇跡を起こした義人たちのことを、聖書では沢山紹介しているわけですから、ましてや現代にはRAPTという神から遣わされた人間が誕生しているわけで(あくまで自称に過ぎないですが)、聖書に書かれた奇跡のうちの一つでも出来ないと嘘でしょう。
それを「非現実的」と世間一般では表現するわけで、つまり聖書は非現実的な話ということになります。
非現実的というのは、言い換えればフィクションですから、そのような話から学ぶものは一切ないと言ってもいいでしょう。
現代のフィクションドラマの方が、よっぽど学ぶものがありますよ。
ちなみに、Kさんは自身のブログの中で、「新約聖書はルシファーがでっち上げた作り話」という内容の記事を書かれていますが、Kさんの仰せの通り、聖書を作り話だと考えた時に、ファンタジーと感じることにも納得がいくのです。
そうです。
聖書の神の本当の正体は、ルシファーなんです。
まあ、信じない人が圧倒的でしょう。(笑)
私は何も、ルシファーが聖書の神の正体だと皆さんに信じてもらいたいわけではなく、情報の一つとして提供したいだけのことです。
大変残念なことに、聖書の神の正体がルシファーだと仮定すると、RAPTのことやキリスト教の嘘に整合性が取れるという、何とも皮肉な実態があるのです。
数学の背理法という証明方法に倣えば、やはり、聖書の神はルシファーだと断じるしか無いわけです。
皆さんに信じてもらいたいような言い回しになっていますね。(笑)
そうとは知らず、ルシファーのことを愛ある神で善なる神だと信じて疑う道を知らないキリスト信者は、非常に憐れな人達なわけです。
従いまして、RAPTが過去に言っていた「ルシファーが第一線を退いた」という話は、ルシファーによる自作自演だということになります。
現実に、RAPTが言うイルミナティ=悪魔崇拝者は、いつまで経っても滅ぶ気配はありません。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPTの言う悪魔崇拝者がなかなか滅びないのも説明が付くでしょう。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPTたちの活動が全く前進しないのも説明が付くでしょう。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPTたちがいつまで経ってもサタンとやらの妨害に悩まされているのも説明が付くでしょう。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPT理論+αのサイトで書かれてある証の数の少なさや内容の薄っぺらさにも説明が付くでしょう。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPTが何も凄くないことにも説明が付くでしょう。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPTたちが工作員との私闘をいつまでも繰り返すのも説明が付くでしょう。
ルシファーが聖書の神だと考えますと、RAPT信者たち(十二弟子や使命者ら)に、いつまで経っても信仰のズレが生じることにも説明が付くでしょう。
明確な説明が出来て、すんなりと納得できることこそ、真理と言えるわけです。
また、「聖書は比喩で書かれてある」ともRAPTは言いますが、そもそも比喩で書く必要性が私には理解できません。
そもそも聖書とは、多くの人達、もっと言えば、全人類が読むべき書物のはずではないのでしょうか。
それなのに、比喩で書いてどうするんだ、と言う話です。
それも、分かり易い比喩ならばまだしも、説明してくれる人がいなければ理解できない比喩なんて、もはや意地悪の領域でしょう。
例えば、小学校の教科書は比喩で書かれてあるのですか?
小学校の教科書は、それこそ日本にいる全ての子供たちが学ぶ書物、ということは、日本人全員が学んでいる書物です。
教科書が誰にでも理解できないように書かれてありますか。
要するに、多くの人に読んでもらいたいはずの書物が、多くの人が読んでも理解できないのであれば、聖書の存在意義は一体どこにあるというのでしょうか。
多くの人達に読んで欲しければ、分かりにくい比喩なんか用いずに、誰でも理解しやすいようにそのまま書くべきでしょう。
聖書は「神の封印書」だとRAPTは言っていますが、そうであるならば、それこそ聖書の神は意地悪な神だと言う他なく、このことについても、聖書の神の正体がルシファーだと考えれば、辻褄が合ってくるでしょう。
このように、キリスト教のこと、聖書のこと、RAPTのことなど語れば語るほど、神が善なる存在ではなく、悪なる存在だと言える要素しか見当たらなくなるわけです。
例えて言うならば、大学の教授が学生たちに理解しにくいような講義を行っているに等しい行為です。
私は大学にも通いましたから、実際に大学の講義を受けてきましたが、教授たちの授業で分かり易く説明してくれる講義はほとんどありませんでした。
「理解出来る者だけが付いてくればよい」と言っているような講義のやり方だったのです。
実際にRAPTの下では、RAPTのことを理解できる者だけが付いてくればよい、という考え方に基づいて信者を集めています。
現在の大学の講義の在り方は分かりませんが、聖書とは言わば、大学の講義のような類のものでしかありません。
私は大学の講義により、数学が分からなくなり挫折を覚えましたが、聖書も全くもって同じだと言えそうです。
誰にでも理解できるように書いて、多くの人達が付いて来れるように書くのがあるべき姿というものでしょう。
例えば、イエスが湖の上(水面)を歩くシーンや、イエスがわずかな食糧を五千人に分け与えるシーンなど、RAPTは比喩だと説明していますが、どうしてわざわざ比喩で書く必要があるのですか。
RAPTが言うには「『イエスが湖の上を歩いていて、ペトロがイエスの手を握りながら水面を一緒に歩き、強風が吹いてきて怖くなった途端、湖の中に沈んでおぼれかけた』というシーンは、ペトロがイエスを意識していた時は大丈夫だったが、意識が世の中に向いた途端に信仰のずれが生じたことの例え」だと言うのです。
いやいや、そのように理解するのはまず不可能でしょうし、そうであれば、分かり易くそう書けばいいと思いませんか。
わざわざ水面の上を歩く奇跡的な話にすり替えて書くのではなく、ペトロの現在の状態をそのまま書けばいいでしょう。
更にRAPTが言うには「イエスが五千人にわずかな食糧を与えたシーンは、食糧ではなく御言葉を与えたんだ」と説明しましたが、いやいや、だったらそう書けば済む話でしょう。
実際にRAPTは、イエスが五千人にわずかな食糧を分け与えたシーンを真に受けていた経験があると語っていました。
そのような奇跡を自分も起こせるようになりたい、と。
普通の人間であれば、誰であれそう解釈するでしょう。
こんなのは比喩ではなく、読み手を騙していると言ってもいい位です。
こんなの、RAPTでさえ真に受けたのであれば、子供たちが読んだら尚のこと真に受けるでしょうし、当然ながら大人であっても真に受ける人はいるでしょう。
こんな書き方は、子供たちの教育のためにもよくありません。
RAPTも聖書を読む重要性を説いていますが、そうであるならば、音声配信の中で聖書の話をもっとするべきではないでしょうか。
しかも、RAPTの聖書に関する話にも実は矛盾があるのです。
簡単に説明しますが、RAPTは、新約時代(新約聖書の時代)とは、旧約時代(旧約聖書の時代)を破棄した時代だと説いています。
旧約時代の神の掟のことを「律法(りっぽう)」と呼ぶのですが、イエスの登場によって律法を破棄して新しい掟を授けた、と言うのです。
ちょっと待ってください。
そうであれば、現代の我々にとっても旧約時代の話はナンセンスだとなりませんか。
明らかに旧約聖書を読む意味を否定したRAPTの発言です。
更にRAPT曰く「現代は成約時代、つまり、神と人間の約束が成される時代」だと言うのですが、成約時代に突入したので新約時代のものは破棄された、と主張しています。
と言うことはつまり、これもまた明らかに新約聖書を読む意味を否定したRAPTの発言です。
もうRAPTの語る話は、そのほとんどが支離滅裂です。
だったら聖書なんて必要なくなります。
だって、新しい時代に突入したのならば新しい掟を学べば十分でしょう。
しかもRAPT曰く「神様は新しいものを好まれる」そうですが、であれば尚更、聖書は不必要だとなりませんか。
このように、RAPTにしても、RAPTの神にしても、言っていることがあまりにも滅茶苦茶過ぎるのです。
どうして、このような支離滅裂で無茶苦茶で矛盾だらけのことが起きるのかと言えば、聖書の神が悪なる存在であるルシファーだから、と考えれば納得でしょう。
古いものは脱ぎ捨てるんでしょう?
であれば、成約聖書なるものを披露すればいいだろう、と私は思いますし、それこそRAPTが神と会話をして成約聖書を作り上げればいいのではないですか。
それすら出来ないのに、偉そうなことを語るな!!ということです。
そもそも、神と人間の約束って何?と思うのですが。
その答えに対してもまた、突っ込みどころ満載となるでしょうが。
何度も書きますが、もしも現代が成約時代になっていると言うならば、旧約時代の掟は勿論、新約時代の掟も不要だと言う理論になるはずです。
それでいながら不要な掟ばかりを書いている聖書を「何度も読め」というRAPTの指示は、その話をした自分の理論を否定したも同然と思うのは私だけでしょうか。
今回の内容だけ取っても、聖書を読む価値性は全く無い、と言えるのではないでしょうか。
聖書なんて、人間を騙すだけの書物で、非常に危険な書物だと断言します。
そう言えば過去に、巡回して近隣を訪れるキリスト信者のような2人連れのおばさん達が、聖書を紹介するビラをポスティングしていましたが、私はそのビラが何となく気持ち悪く、聖書も毛嫌いしていたのですが、その理由が今では分かる気がします。
現在でも巡回しているようですが、正直言いまして、あの行為は迷惑行為そのものです。
迷惑行為を平気で行えるキリスト信者が、本当にまともで善良な人だと言えるのでしょうか。
仮に、そのおばさん達がエホバの証人の信者だとしても、私が言いたいのは、聖書を紹介している時点でキリスト信者と同じだということです。
従いまして、キリスト教こそ本当の悪魔教だと結論付けるしかないわけです。
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